野分のきみへ

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 ざざざぁと風が吹く。教室の一室は負けじと賑やかだ、三人しかいないのに。 「きゃああ、すごい風!」とはしゃいでばたばた窓を閉めてまわっている高校生の女の子ふたりを矢内原(やないはら)とあは微笑ましく見ている。  ふたりの高校生たちが駆けまわるのを見ながらゆったりと座っていることを許されるのは、とあが傘寿になる老媼であるからだ。椅子に柔らかいクッションを置いてくれたのは、賑やかで楽しそうな彼女たちだ。 「先生、怖くない? 大丈夫?」  ひとりが心配そうにとあを覗き込んでくる。艶やかな黒い髪は短くて、額まわりや耳もとにくるくるふわふわかかっている。その髪型は白くてまるい、柔らかい印象のかわいらしい顔によく似合っている。とあはにっこりと微笑んだ。 「ふふ、ありがとう。大丈夫よ、この歳になると怖いものなんてあまりないのよ。ゴキブリは怖いけれどね」 「先生、そんなのが怖いんだ!」  とあの言葉に女子高校生たちは楽しそうにきゃらきゃら笑った。腰をかがめて覗き込んでくる短いふわふわヘアの女の子は石原(いしわら)理音(りおん)、その横に立つのは大櫛(おおくし)(りん)だ。烏の濡れ羽色のまっすぐな髪を肩まで伸ばしている。ふたりはとあの短歌教室の生徒だ。  天気が怪しくなる前にほかの生徒たちは帰宅した。なんとなく三人でのおしゃべりに盛りあがっていたら窓の外が荒れ始めたのだ。 「わぁ、こんなにひどい天気になるなんて思わなかった」 「ちゃんと天気予報見てこればよかったね」  理音と稟が窓を閉めてくれたので教室は危険から隔離された、静かで安全な場所になった。風に揺らされる窓が音を立てる、恐ろしい音に高校生たちが怖がっていないかと心配したけれど問題なさそう、理音と稟はこの非日常を楽しんでいるようだ。  窓際に、肩を寄せて並んで、きゃっきゃとはしゃいでいる姿はとあを癒してくれる。青春映画の一シーンを切り取った光景のようなふたりの姿をにこにこと見つめていた。  とあはこの女子校のOGで、若いころ少しばかり短歌を齧っていたことから生徒たちに教えてやってほしいとの依頼を受けたのだ。  若い女の子たちと話す機会があるのは嬉しいことだ。放課後の課外授業として月に一回のスケジュールで引き受けて授業をしている。  もっともとあは、授業なんてたいそうな時間だとは思っていない、十人ほどの女の子が集まって賑やかに過ごす時間だ。楽しげな彼女たちを見てとあがほのぼのと癒される得難い時間でもある。 「まぁ……野分。絶え間なき、ものの響やわれひとり……」  ちいさな声でつぶやいた。斎藤茂吉の歌だ。とあはこの歌を「絶え間なく吹きすさぶ野分の音が響く庭に私はひとり出て行った」という解釈をしている。ひとりで出て行った——出て行って、そこにはなにがあったのだろうか。  荒れる天候を見るたびにとあはそのことを思う。とあの小さな呟きに理音と稟は気がついていないようだ。  ひとりで、庭に。風の吹きすさぶ——徐々に激しくなる雨風を、とあは安全な室内から見やっている。だからこそのんびり思いを馳せることができる。  とあの人生はこの室内のようだった。荒れ狂う雨風からとあは守られていた。とあにとって嵐とは傍観するものだった、吹き荒れる庭に出て行ったこともない、ましてや嵐のただなかで揉まれたことなどなかった。平穏な人生だった。  安全な屋内から荒れた屋外を見ながら思いを馳せた。夫はとうに見送った。ときどき会う子どもたちはみんな結婚して孫たちともども元気にやっている。とあの体にも頭にも今のところ際立った問題はなく、安泰の老後といったところだ。  夫婦だった間、夫となにひとつ問題がなかったというわけではなかった、それでもとあの夫は誠実な人物だった。浮気だの浪費だのはいっさいなかった。夫自身はこんな地味な男はつまらないだろうと笑っていたけれど、夫はとあが配偶者に求めるものを満たしていた、とあは満足していた。  なにも不満のない、充分に幸せな人生だったと思う。そう、窓の向こうの嵐のような人生ではない、とあは打ち寄せてきた小さな波をいくつも乗り越えてきたけれど破滅を覚悟するような大波はなかった、それはなによりも幸せだった。嵐とは無縁の、穏やかな人生——。 「きゃ、あっ!」  窓ガラスが今にも割れそうな音を立てる。強風の音に理音が脅えて悲鳴をあげた。どこか楽しそうにも聞こえる。稟は「大丈夫だよ、理音」と宥めつつ理音の悲鳴を聞いている。稟もこの時間を楽しんでいるのだろう、表情にはあまり出ていないけれど。 (まぁまぁ理音さんは元気なこと、かわいらしいわ。稟さんは静かだけど、そうね……なんというか。見守るお母さんみたいな感じね。物静かなお嬢さん)  若い娘たちのはしゃぐ様子は目と耳の肥やしだ。ひときわ強い風が吹く、ガラス戸に大きな雨粒が当たって今にも割れそうだ。この程度では割れない丈夫なガラスだと知っているけれど。  ここは、安全だ。  とあは立ちあがった。窓際に群がる娘たちの横に立った。 「野分ね、ずいぶんと風情があること」 「あっ先生。それってなんですか?」  理音が首を傾げている。稟もぱちぱちとまばたきをしている。好奇心を煽られると稟はこういう表情をするのだ。今までの授業から、とあはそう感じている。 「野分は今日みたいな天気のことね、秋の嵐。源氏物語にこういう一文があるわ。『春秋の争ひに、昔より秋に心寄する人は数まさりけるを』って」 「どういう意味なんですか?」 「春か秋、どちらが優れているか。昔から秋に心を寄せる人は数多くいたけれど、って意味」 「要は秋が好きな人のほうが多いってことですか? そうなんだ……そうかなぁ?」  理音は首を傾げている。稟は大きな目をぱちぱちさせてとあを見ていた。口数は少ないけれど表情は豊かな女の子だ。月に一回の授業でも口数の少ない娘で積極的に話すことはない。  それでもその心までおとなしくはないと、とあは感じている。とあはこの娘に興味を持っている。 「そうね、あの時代の貴族の中ではそういう価値観が主流だったんでしょうね。源氏物語にはね、秋を愛する中宮さまがおいでなの。その方のお庭を野分が乱して、中宮さまがお嘆きになる。『草むらの露の玉の緒乱るるままに、御心惑ひもしぬべく思したり』ともあるわ。草むらについている露の玉が風で乱れるにつれて、お心がどうにかなってしまいそうに惑っていらっしゃった、って」 「すらすら暗唱できるんですね! 覚えてるなんて先生すごい!」 「ふふ、ありがとう」  理音が歓声をあげる。稟も感心した顔をしている。稟は理音のようにわかりやすくはないけれど「へぇ」という気持ちだというのが伝わってくる。  とあがにっこりと笑いかけると稟は目を丸くした。驚いたようだ。続けて理音の明るい声が響く。 「わたしは春の方が好きだな! 明るい感じがするじゃない? お花がいっぱい咲くし、あったかいし」 「そうね、わたしも寒いのは辛いわ……歳のせいもあるけれど」 「先生、そんなこと言って!」  理音は笑った。いつも賑やかで楽しい娘だけれど今は特にはしゃいでいるように感じられる。気のせいだろうか。 (野分のせい? それとも……なにかあるのかしら)  ガラス窓には激しく雨が叩きつけている。割れんばかりの勢いだ。それを目に理音は「こわい」と脅えている、そのわりには楽しそうでそんな表情もかわいらしい。  とあは稟の顔を見た。稟も「こわいね」と言っているけれどそれほど脅えているようではない。 「稟ちゃんは秋の方が好きなんだよね、前言ってたよね」 「覚えててくれたんだ?」  稟はぱっと嬉しそうな顔をした。理音は「うん」と明るい表情で言った。稟は「そうなんだ……」と感じ入った表情だ。理音が覚えていてくれたことが嬉しいらしい。ふたりの仲のよさにとあはますますにこにこした。 「先生はどうですか? 先生は春と秋、どっちが好き?」 「……え?」  明るい理音の質問を前に、とあは言葉に詰まった。理音は「先生?」と不思議そうだ。稟もぱちぱちまばたきをして首を傾げている。 「そ、うね……考えたことなかった、けど……」  困った、本当に困った。とあは眉間に皺を刻む。「先生?」と理音は不思議そうだ。 「先生を困らせたいわけじゃないんですけど、そんなに難しい質問かなぁ? 好きとか嫌いとかあるでしょ?」 「好きとか嫌いとか……そうね、好き嫌い、ね」  とあは口ごもった。考えたことがなかったことだ。好き? 嫌い? そんな選択はとあの人生にはなかった。とあは混乱する。 「ごめんなさい、わたしには比較できないかも。両方とも好きよ。好きだから、選ぶなんて考えたことないわ」 「そんな、同時にふたりに告白されたとかじゃないんだから!」 「なにその喩え」  理音は楽しそうに笑って言った。稟に突っ込まれて理音はまた笑う。楽しげなふたりを見ているだけでとても癒やされる、けれど。 「そうねぇ……」  首を傾げてとあは考えた。考えたけれど強い好き嫌いの感情を持ったこと、それを基に選択をした記憶がないのだ。 「わたしの好き嫌い、とか……そんな、もの。ただ「こうあるのが普通」だから……まぁそんな顔しないで。わたしはとても恵まれていて切羽詰まった選択の局面とか我慢できないほどの不満とか、そういうのがなかったから。どうしても選択しなくちゃいけないことがなかったから。だからこれって決める習慣がないのかもね」  十代の女の子たちは不思議そうで不満そうだ。理音はあからさまに腑に落ちないというようだ。とあは苦笑した。 「そういうものなんですか? でも好き嫌いとかあるでしょう? 選択の基準が好き嫌いじゃないとしても、でも好きとか嫌いはあると思うんですけど」  理音は納得できないようだ。ひどく不服そうで隣の稟も首を傾げている。ふたりの娘の反応にとあは愉快になった。 「今のお嬢さんたちにはこういうのはおかしいのかもしれないわね。でもわたしはこういう種類の女なのよ、昔から。古い人間だからね。感情が薄いっていうのかしら、感覚が鈍いのかもしれないわ。こういう女もいるのよ」 「ふぅん……」  無理やり自分を納得させているようだけれどそれでもなお理音は不満そうだ。稟も首を傾げている。若い娘たちを混乱させてしまったかもしれない。とあは笑う。 (えっ……?)  ふと胸を掴まれた。稟がまたぱちぱちとまばたきをしている。とあをじっと見ている。なにか言いたげに見つめられている。  そのまなざしの色になにやら責められているように感じて、ひるんでしまった。  稟は口には出さない感情が顔に出る娘だ。それを知っているとあだから、稟の心が読み取れたのかもしれない。 (稟さん、どうしたのかしら……なにかわたしに、言いたいことが……あるの、かな?)  理音はからっと明るくて爽やかで、見ているだけで気持ちが上向くような娘だ。比べると稟はおとなしい。黒目がちの大きな瞳はなにを考えているのかよくわからない、不思議な娘だと思っている。だからこそその表情の豊かさは興味深い。 (似ていない子たちだけれど、だからこそ仲がいいのかもね。自分にないものを求めるっていうし)  ふたりはとても仲がいい。稟はいつも理音にくっついていて、一緒の行動は理音が先導して。  ふたりは、常に一緒だ。若い娘が揃ってきゃっきゃはしゃいでいるのは微笑ましい、とあはこのふたりを見ているのが好きなのだ。  とはいえ「理解できない」と首を傾げている理音が求めるように答えられなくて申し訳ないと思う。稟がなにを言いたいのかもわからない。 「ひゃあっ!」  窓を叩く雨粒の音がひときわ大きく響いた。その場の皆が揃って飛びあがる。 「うわぁ……びっくりした」  理音が胸を押さえて目を丸くしている。 「ねぇ、先生。先生はご結婚されてるんですよね」  尋ねたのは稟だ。突然の質問にとあは戸惑った。 「ええ、主人は十年前に亡くなったけれどね」 「そうなんだ……ごめんなさい」  稟は悲しそうな顔をした。とあは慌てる。 「そんな顔しないで。昔のことだからね、もう悲しい時期は終わったわ。いい思い出というのかしら……昔のことを思い出してあんなこともあったな、そんな感じ」 「先生の旦那さんとのなれそめを聞いてみたいです」  稟が今度はそう言ったので驚いた。まっすぐ見つめてくる稟を前に戸惑ってしまう。 「そ、そう……? 聞いて楽しいものかしら」 「うわぁ、わたしも! わたしも聞きたい!」  理音がはしゃぐ。稟の言葉になぜか少し緊張した。窓の向こうではなおもざぁざぁと野分が音を立てている。理音の明るい声が荒れた風の音をかき消した。 「旦那さんと初めて会ったときのこととか聞きたいです! どこで知り合ったんですか?」 「結婚式で顔を合わせたのが初対面から三回目だったわ」 「ええっ!?」  理音はもちろん稟も驚いている。びっくりした稟の顔を見られたのに喜びを感じてしまった。 「そんなにびっくりしないで。鳩が豆鉄砲を食らったようってこういうことを言うのね」 「先生、呑気!」  またとあの知らなかった稟の表情が見られた。とあは笑った。娘たちはそれどころではないようだ。 「いやいやでもでも先生、どうして二回しか会ったことがない人と結婚……ああ、お見合い結婚ですか?」 「そうよ、お見合い結婚はあたりまえだったから。もちろんわたしの両親の時代ほどじゃないからね、恋愛結婚の人もたくさんいたけれど。でもわたしの同級生もみんなお見合い結婚だった」  そういうものだった、そういう——。話しながらとあは、改めて自分の記憶を振り返る。今までこういう時間を持った記憶は薄い。 「そうなんだ……二回しか会ったことのない人と……」 「そう、あなたたちには驚くことかもしれないけれど、あのころはそれが普通だったから」 「へぇぇ……」  どうしても腑に落ちないようだ。生け贄にされた哀れな娘でも見ているような理音と稟の顔にとあは微笑んだ。 「わたしの旦那さまはいい人だったわ。とても優しい人で、浮気とか暴力なんてまったくないし、わたしをたいせつにしてくれたし、いつもわたしの前に立ってくれた。旦那さまが世間の波をかぶってくれたからわたしは選択を迫られずに生きてこられたんだと思うの」 「そうなんだ……いい人だったんですね、すごく、よかったです」  理音は顔を輝かせた。うんうんと何度も頷く。 「でもわたしはいい人だけなのはいやかも。あっごめんなさい、先生の旦那さんをディスってるわけじゃないよ、ただわたしはどう思うかってこと! ちょっと強引にわたしを引っ張ってくれる人がいいな。追いかけたり追いかけられたり、そう、情熱的な恋愛がしたい! 映画みたいな」 「理音はいつもそう言ってるよね。理音には似合うと思う」 「そうそう、こないだ一緒に見た映画すごく素敵だった……ええと」 「あれでしょ『魔法にかけられて』」 「そうそう! あんな感じ、ジゼルとロバートってすごい素敵だと思う!」  映画の「萌えシーン」「推しシーン」とやらを滔々と語る理音はひどく浮かれている。稟は目を細めてくすくす笑っている。  いつもクールな稟がこんなに楽しそうに笑うなんて。改めてとあは、興味深く稟を見た。 (稟さんは理音さんが好きなのね。仲よしでいいこと、かわいらしい)  癒されているとあに理音が勢いよく問うてくる。 「でも先生、離婚しなかったんでしょ、ってことは旦那さんのこと好きだったんでしょ? だったら絶対ありますよね、情熱的なエピソード。聞きたい! 先生の恋バナ聞きたいです!」 「情熱的なエピソードなんて。そんなものは……ねぇ」  理音の勢いにとあは笑った。とあは笑ったし稟も笑っている。理音はきらきら目を輝かせている。野分にも飛ばされない露の玉のように。 「離婚だってそんなに簡単なことじゃなかったのよ。DVなんて言葉もなかったし。夫婦の間でなにか揉めごとがあっても『夫婦げんか』で済まされていたし。離婚なんて恥ずかしい、世間体が悪いって風潮が主流だったしね。それにわたしもお友達もみんな専業主婦。離婚したら生きていく手段がないから。もちろんわたしの旦那さまは離婚を考えたくなるような人じゃなかったけれど」  稟が「そうですよね」と口を挟んだ。その口調は本来の彼女のままに淡々としている。 「井上ひさしがDV夫だったのは有名な話ですよね。原稿が進まなくていらいらしたら奥さん殴ってたとか。本人は認めなかったみたいですが」 「うわぁドン引き。ってか井上ひさしって誰?」 「作家だよ、『吉里吉里人』とか」 「ふぅん?」  理音は首を傾げている。古い小説にはあまり興味がないようだ。それでも短歌教室に参加しているのはなぜなのか、今さらながらに尋ねてみた。 「だって稟ちゃんが参加するっていうから。稟ちゃんはいろんなこと知っててすごいんです、話聞いてて面白い。だから稟ちゃんが興味あるっていうから絶対面白いんだと思って。実際面白いから稟ちゃんに感謝です。先生が先生でよかった!」  照れたように、にっこりと笑う理音はとてもかわいらしい。とあもにこにこふたりを見た。理音は、はっと声をあげる。 「先生のお話……そうなんですね。だったら先生、やっぱり好きだったんでしょう? 旦那さんのこと」 「まぁまぁ、そんな……好きとか嫌いとか。今さら考えても仕方ないでしょうに。もうとうに亡くなった人よ?」 「そうかもしれない、ですけど。でも先生がどんな経験をしてきたのか聞きたいんです。授業でしてくれるお話もすごく面白いし」  恋バナに興味津々の理音の隣、稟が口を開く。 「ねぇ、先生」  稟が覗き込んでくる。黒目がちの大きな目でじっと見つめられて、なぜかひどくうろたえた。稟のまなざしに「嘘つき」と言われているように感じるのはなぜなのか。 「旦那さんのこと……好きですか?」 「ええ。好き、だったわ」  とあは即答した。強く頷いた。それは確かだ。 (好きだった、間違いなく好きだった。あの人は声を荒らげることもなかったし喧嘩だってした記憶がない。意見が対立することがあってもすぐに妥協点を探りあえる、波風なんてない、そんな夫婦だった……)  また強い風が吹く、窓が激しく音を立てた。教室には娘たちのどこか楽しげな悲鳴が響く。 「好きだわ、好きだったわ……あの人のこと、好きだったわ」  とあはうたうように呟いた。娘たちが耳を澄ませる。 「けれど……で、も。いいえ、おかしな言い方をしたくない、大好きだった、あの人はとてもいい人だった……あらおふたりさん、なにか期待してる? わたしは情熱的な恋愛をしたかったわけではないの。そういうものなの、情熱的な恋愛なんて文学や映画なんかにしかないものだから。普通の人生は淡々と過ぎていくものなのよ……そう、世の中の「そうあるべき」に従って流れるのが一般の人間の人生……それが、普通。だっ、て」  気づけばとあは、そんなことを言っていた。女の子たちがじっととあを見ていて、はっとした。 「あっごめんなさい。わたしはそうだというだけよ。あなたたちを否定するつもりなんてないの。ただわたしはこういうふうに今まで生きてきたというだけで」 「わかってます、先生」  稟がにっこりと笑う。このたびの稟の微笑みはとあをほっとさせてくれた。稟は大きな目でとあを見て、そして理音を見てもっとにっこりとした。 「理音は映画みたいな恋をしたいんだよね、素敵な男の人と」 「うん、憧れるなぁ。ロマンチックな映画とか大好き。どうなるかはらはらさせられた挙げ句のハッピーエンドって最高だな!」  がたがたがたと窓ガラスが音を立てる。失言をごまかそうとしたとあは嵐に助けられたような気持ちになった。小さな声で呟いた。 「わたしはいいのよ、もう終わったのだから。それよりもあなたたちのこれからのほうがずっと興味深いわ」  嵐をBGMにとあは話す。理音は不思議そうな顔をしていた。とあも首を傾げる。 「もう終わったって。なんでですか? 終わったみたいな言い方しないでください」 「まぁそんなこと言って」  とあは笑った。 「だってわたしはこの歳よ? 今は余生よ、おまけの人生なの」 「やだぁ先生、そんなのだめですよ、先生はまだまだ若いです!」  理音はきゃっきゃと笑った。皮肉にもおべっかにも聞こえない、心からの言葉なのだということがわかる。  それがこの娘の美点だ。傍らの稟も笑っている。稟の笑いは声を出す笑い方ではない、単にそういう性質なのだ。それでもとあは文字通り老婆であるので、老婆心を働かせてしまうのだ。 (稟さんは、なにか心に引っかかりがあるんじゃないかしら)  だからあまり感情を出せないのだろうか。授業中にそんな懸念をすることもあった。だから稟が気になるし笑顔を見るとほっと安心する。 (まさにこれが老婆心というやつなんだわ)  心の中で自分に笑う。そんなとあを前に理音は笑いを潜めた。とあの反応が思ったようなものではなかったことを懸念しているようだ。首を傾げて唇を尖らせている。 「全然終わってないです、先生。そういうふうに思わないでください」  理音は少しばかり怒っているようだ。 「まぁまぁそんなふうに言ってもらえるなんてね、ありがとう」  とあが軽く答えると「もう、先生!」と理音はぷりぷりしている。そんな理音を楽しげに見ている稟が言った。 「ねぇ、先生のこともっと聞かせてください。先生のお話、面白いです」 「そう言ってくれると嬉しいわ。おばあちゃんの話なんてつまらないと思っていたけれど」 「そんなこと! 先生のお話面白くて大好きです。もっと聞かせてください」 「わたしもお話するの楽しいわ」  とあは、にこにことそう答えた。ここまでこの娘たちと打ち解けられたのは台風のおかげだ。  とあは窓の外を仰ぐ。視界の端に稟の顔がある。なにか言いたげな表情だ。とあにはその表情の豊かさがある程度読めるとはいえ物静かであまりしゃべらない稟が賑やかな理音とこうも仲がいいのが不思議だ。  きっとバランスが取れているのだろう。仲よしというのはこういうものなのかもしれない。  かつてはとあにもこういう友情を交わしていた相手がいた、ような気がする。もう顔も覚えていないけれど。だってあの子とは——そう。 「あ、晴れてきた!」  窓ガラス越しに空を見あげる理音が声をあげた。 「よかった、今のうちに帰りなさい? 真っ暗になっちゃう」 「先生、先生は?」 「大丈夫よ、岡野(おかの)先生に頼んで送ってもらうから」  岡野先生とはとあに短歌教室の依頼をしてきたこの学校の教師だ。理音は「じゃあ大丈夫だね」と安堵したようだ。 「じゃあ帰ろう、ね、稟ちゃん。カバンどこ置いた?」 「あっち」  ふたりはまた賑やかに教室内に足音を響かせる。 「気をつけてね」 「うん、先生も。また来月!」  理音はぶんぶんと手を振った。行くよ、と稟の手を取る。白い手が白い手を無造作に掴んだ。手のひらの形がぎゅっと歪む、そんな乱暴な所作になにか——秘めた情熱を感じた、ような気がする。とあは、見ていた。 (あ、っ……)  そのときの稟の表情の意味を、とあは読み取ることができなかった。 「あ、理音。ちょっと待って」 「どうしたの?」  不思議そうな理音に背を向けて稟が駆け寄ってきた。とあの前で足を止めて覗き込んでくる。秘密を打ち明ける声音で言った。 「先生、わたし、理音が好きなの」 「へっ?」  おかしな声をあげてしまった。自分がこんな声を出せるなんて知らなかった、いろいろな意味でとあは驚いた。「先生を驚かせられた!」と喜ぶように稟がくすっと笑う。ぺこりを頭を下げてくるりととあに背を向けた。ぱたぱたと走って行ってしまう。その後ろ姿を見送るとあは唖然と、そして気がついた。 (わたしは……わたしは、どうしたかったのかしら?)  そんなことを考えたことは今までになかった。自分は激しい感情を持っていないのだと、そういう人間なのだと今までずっと思っていた、思い込んでいた、けれど。 (わたし、は……だって……どうして、だった、の……かしら……?)  あの人との閨は嫌いではなかった。けれど気持ちいいかと問われると(……そうね、少しは)。  でも積極的にしたいことではなかった。歳を取って求められることがなくなってほっとしたものだ。 (ああ、そういえば……)  いつも「早く終わってほしい」と思っていたことを思い出す。いやだったわけではないし拒否するほどのことではなかった。けれど閨を楽しいと思ったことは一度もない。色に負ける人たちはとあにとっては不思議な話の主でしかない。そんなとあは欲望や感情が薄いのだ、ただそれだけだとずっと、思っていた。 (わたしは自分が単に感情が薄い人間なんだって思ってた、けれど……それはほんとうのわたしだった、のかしら……ほんとうに?)  元気な挨拶とともに若い娘たちが駆け出していく、その背中を見送った。 理音を好きなのだと内緒話のように教えてくれた稟の意図はわからない。 (わたしの心が向く方向は、ほかとは違うということかもしれない……殿方に惹かれない女も……閨に興味がない人だって……いてもおかしくない……の?)  がらがらと音を立てて窓を開けた。とあを守ってくれた分厚いガラスの窓はすっかり汚れてしまっていた。  その向こうにはきらめく空がある。空とはこれほどに澄んでいただろうか、美しかっただろうか。 (わたしは、わたし自身をもっと知っていいのかもしれない)  とあはなにかを選んでいいのかもしれない。自分がなにを好きなのか、なにを欲しいと思っているのか。自分自身を知ろうとしてもいいのかもしれない。空に向かって大きく息を吐いた。 (わたしはどういう人間なんだろう?)  とあは空を仰いだ。嵐に洗われた、掃いたような空だ。どこまでも広く、遠く、遙か彼方にまでつながっている。  その向こうになにがあるのか、初めて興味を持ったように思った。 (終)
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