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 夏休みが終わる三日前に、佐倉は思い直して実家に帰省した。学校がすでに始まっていた弟には会えなかったけれど、父と母、理恵子に迎えられ、どこまでも安らかな一泊二日を過ごした。「思ったより元気そうね」と母は笑った。        それはこちらの台詞だ、と佐倉は小さくぼやきながらも、以前と変わらぬその笑顔に心の底から安堵した。そんな一家団欒の時を持てたのも朝見のおかげかもしれない。いつも何かと追われ続けていた日々の中で、佐倉はそういった大切な時間をいつの間にか忘れてしまっていた。それを思い出す事ができたのは、きっと彼と過ごした日々が、そしてこれから過ごすだろう時間があるからだ。  帰省から戻るとすぐに後期の授業が始まった。心が変わっても、身体が変わっても、佐倉はやはり佐倉のままだ。教室の最前列、ど真ん中の席は誰にも譲っていない。そして隣には当たり前のように朝見がいる。バイトも勉強も手を抜く事なく励み続けた。だからといって朝見との関係を蔑ろにするような事はない。それと同じくらいの熱量をかけて、佐倉は彼と向き合っている・・・つもりなのだが―――。 「・・・おい、いつまでそうしてるつもりだよ」  ローテーブルにテキストやノートを広げて勉強に勤しんでいた佐倉は、もう一時間近くも黙ったまま、隣に寄り添い続けている朝見にうんざりして顔を上げた。 「お前が言ったんだろう。側にいてくれさえすればいいと・・・、だいたい人の部屋に来てまで勉強を続けるとは何事だ。それが付き合いたての恋人に対する仕打ちか?」 「恋人って・・・っ、だからバイト終わりにこうして家に寄って、さっきする事は・・・したろ?」 「おい、なんだその言い方は。金の次は俺の身体が目当てか。俺の超絶技巧に悶えるだけ悶えておいて、よくもそんな口をきけたな」  佐倉は付き合いきれないと首を振り、テキストに視線を戻した。朝見も別に邪魔をするつもりはないらしく、また黙って隣に居座り続けた。  確かに「側にいろ」とは言った気がするけれど、求めていた感じとはだいぶかけ離れている現状にため息を吐く。しかし、それも不器用な彼なりの愛情表現なのだと思えば、多少鬱陶しくても無下にするわけにはいかない。 「・・・なあ、佐倉」  しばらくして、佐倉がそろそろ切り上げようかと思った頃、朝見が再び口を開いた。 「俺と結婚してくれないか?」  唐突な求婚に、いつもの無表情。さて、どうしたものかと苦笑する佐倉がいて、「何がおかしい」と眉をひそめる朝見がいる。  夢のため、家族のため、そして彼のために、これからもきっと忙しなく走り続けるだろう毎日。佐倉はそんな未来を想像してみる。  悪くない・・・いや、なんだかわくわくして愛おしくもある。だけど湧き上がる気持ちは、なかなか言葉にはならない。この感情をうまく伝えるだけの言葉も、いつか自分は学ぶだろうか。  手に持っていたシャーペンを机に置き、テキストを閉じる。朝見と向き合って座り直し、見つめ合う。  拗ねてしまったのか、朝見の眉間には深い皺が寄っている。佐倉は躊躇いがちに伸ばした指でその皺をなぞるようにして撫でた。  気の利いた言葉はまだ浮かばない。そして、恥じらいも捨てきれない。  佐倉は掌で朝見の眼鏡を覆い、視界を遮った。それから躊躇いがちに顔を寄せると、何か言う代わりに、できる限りの気持ちを込めて、朝見にそっと口づけた。    
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