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「俺に抱かれてみる気はないか?」  脈絡のない唐突な申し出に、佐倉貴彦は手に持った缶ビールを宙に浮かしたまましばらく静止した。 「・・・は?」  訳がわからず、ぽかんと開いた口から独りでに一文字だけ零れ落ちた。 「だから、俺に抱かれてみる気は、」 「いやいや、聞こえた。聞こえたけど・・・」  みなまで言うなと佐倉は慌てて制止した。そして目の前のこの男、朝見信吾がどうして突然そんな事を言い出したのかと考える。考えはするものの、酔いのせいかうまく頭がまわらず、答えは出てこない。 広いリノリウム床のリビング、黒の革張りのソファー、ガラス張りのローテーブル、モノトーン調のラグ。他人の部屋とはいえ、今まで馴染んでいたものが急に余所余所しく態度を変えたように感じた。 「・・・抱くって何・・・、どういう事?」  佐倉の問いかけに朝見は理知的に整った眉をしかめ、眼鏡のフレームを面倒くさそうに持ち上げた。 「抱くというのは、つまり俺とセッ、」 「違う違う。意味も通じてるってば」 再びの制止に朝見の眉間が更に波打つ。佐倉は弁明するように慌てて言葉を継いだ。 「だから、俺が聞きたいのは、どうしてそんな話になったのかって事。そもそも抱くってなんだよ、相手を完全に間違えてるし。もしかして相当酔っ払ってる?」  ローテーブルに並んだ空き缶の本数を数える素振りをみせると、朝見がそれを鼻で笑った。 「俺は酔ってなどいない。至って正気だ。どうしてそんな話になったのかって? そもそも佐倉が言い出した事じゃないのか。よく考えてみろ。それともお前こそ酔っ払っているのか?」  顔色一つ変えずに淡々と述べる朝見を見ていると、確かに自分が言い出した事のような気がしてくるけれど、納得する寸前に佐倉は首を振って、いや、そんな事は断じてないときっぱり否定した。それから言われた通り、もう一度よくよく考え直してみる。抱くやら抱かれるやら、そんな話に繋がる糸口が今までの会話の隅にでも垂れ下がっていただろうか、と。  コンビニで買い込んだ肴をローテーブルの上に広げて缶ビールで乾杯した後、しばらくは大学の同期同士、他愛ない四方山話に花を咲かせていた。そのうち話題が尽き、三本目のタブを開いた辺りで佐倉が愚痴を零し始めた。大学入学時からずっと勤めていたバイト先のスーパーが突然閉店し、つい先日仕事を失った。実家は途方もなく貧乏で頼れない。今月は金銭面でだいぶ苦労する事になるだろう。と、佐倉が言い終えたあとに件の朝見の言葉に繋がる。いや、繋がっているだろうか。やはり考え直したところで脈絡も何も見当たらない。徐々に傾きつつあった首が直角まで折れるかというところで朝見が口を開いた。 「三万でどうだ?」  そんな佐倉に構う事なく交渉が始まる。益々訳がわからなくなったけれど、まだ辛うじて稼働している脳の片隅の思考回路をフル回転させて佐倉は朝見の話を要約する。 「・・・つまり、三万で俺を抱かせろって事か?」  丁寧に確認するまでもないだろうといった風に朝見は涼しげに頷いた。大学に入学してから二年来の友人である彼の、やはりどう考えても唐突な性癖のカミングアウトは佐倉の思考回路を完全に沈黙させた。 「悪い話じゃないだろう。こんなにおいしいバイトはどこを探しても見つからないぞ。俺はお前が欲しい。お前は金が欲しい。欲しい物を二人とも手に入れる事ができてウィンウィンだ」 「・・・冗談、だろ?」  今日はエイプリルフールだったか、いや、違う。佐倉の引き攣った笑みを朝見は真っ直ぐに見つめ返している。嘘偽りない彼の情欲を受け止めきれずに佐倉は思わず目を逸らしてたじろいだ。 「酒が切れたな」  朝見はローテーブルに空き缶を並べると立ち上がり、キッチンへと向かった。その隙に佐倉は脳を再起動させてこの現状の把握に努めた。聞きたい事は山ほど浮かぶ。しかし、どれをどう切り出したものか、その問いの性質上、どこまで踏み込むのかはよく検討しなければならない。決して踏み込んではならない地雷原を目の前にして、安全な通路を模索するような作業だ。 「残り物で悪いが、結構いい酒だぞ。ワインは飲めたよな?」  作業の途中で朝見がソファーに戻ってくる。沈み込む感触に胸が鳴った。半端に差したコルクを抜いて、朝見が二つ並べたグラスにワインを注ぐ。佐倉はまじまじとその光景を見つめながら、しかしその視覚情報は脳に一切伝達されていなかった。  手渡されたグラスを佐倉はおずおずと受け取る。朝見も同じく自分のグラスを手に取ると、佐倉のそれに軽く合わせた。小気味良い音がまるで交渉成立の合図に思えて嫌な汗をかく。このまま酔わされて犯されるのではないかという憶測が脳裏を過ぎり、佐倉は慌ててグラスをローテーブルに戻した。 「ちょっと待て!」  またしてもの制止。朝見は傾けかけたグラスを垂直に戻し、怪訝な、それでも形の良い瞳で佐倉を見た。 「やっぱり訳がわからん。まず朝見の提案が本気である事を前提としても、第一に俺は男だ。抱かれるにはそぐわない身体だ。それはどうする事もできないだろ?」  朝見が鼻で笑う。 「お前が男である事など周知の事実だ。しかし全くもって問題はない。男同士で性交渉に至る術を俺はすでに学習済みだ。お前もどうやるのか、そこはかとなく知ってはいるだろう?」  聞かれた事を想像すると、こめかみの辺りがひくりと痙攣した。 「・・・確認までに聞いておくけど、朝見、お前はあれか・・・ゲイなのか?」 「それはこれから俺も検証するところだ。自らの性的指向についてはまだ未知数な部分も多い。よってはっきりとした解答はしかねる」 「それは俺を実験台にしようって話か」 「人聞きの悪い事を言うな。誰もお前をモルモットにしようなんて言ってないだろう」 「いや、俺も断じてモルモットなんて言葉は使ってないぞ」 「おっと、それは失敬。・・・で、どうなんだ?」  朝見の眼鏡が照明を反射する。その光に佐倉はまたたじろいだ。 「・・・どうって?」  気圧されて口籠もると、余裕たっぷりに朝見はワインで口を湿してからもう一度佐倉の方に向き直った。 「だから、俺に抱かれてみる気はあるのか?」  追い込まれそうな威圧感に、佐倉はソファーの端までじりじりと後退した。 「いや、あるわけないだろ・・・」  そして態度とともに吐き出した拒絶の言葉に、朝見は初めて表情を乱した。どうやら驚いているらしいその様子に、佐倉の方が驚かされた。何故、承諾されると思う事ができたのだろう。そんな隙や、素振りを出会ってから今までに一度だって見せた事があっただろうか。いや、ない。佐倉はそう断言できる。 「・・・ていうか、なんで俺? 金払ってそういう事したいなら、それ相応の人やら場所やらがあるだろ? ていうか無駄に備えたそのルックスを活かせば、金なんて払わずに済むんじゃないのか?」 「聞いていなかったのか? 俺はお前が欲しいと言ったんだ。誰でも良いわけじゃない。他の誰かなら金を払う必要もない。二年と少し付き合ってみて、佐倉にはその価値があると思えたからこその提案だ。そこを間違えてほしくないのだが」 「いやいや、色々と間違ってるのは、どう考えても朝見の方だと思うんだけど・・・」  呆れて肩を落とすと、朝見はあさってを向いて、自分の言葉のどこか誤っていたのだろうかと考え込んでしまった。すっかり酔いが醒めた佐倉は訪れた沈黙に乗じて時刻を確認する。この場を去るには頃合いかと立ち上がり、「そろそろ帰るわ」とだけ朝見に声を掛けてから歩き出した。 「気が変わったらいつでも言ってくれ」  玄関で靴を履いていると、後ろから追いついてきた朝見が見送りがてらにそう言った。佐倉はそれを軽く受け流しつつ、朝見の部屋を出た。きちんと絨毯が敷き詰められた廊下を歩き、エレベーターで一階まで下りる。エントランスを抜けると、駅に向かって歩き始める前に一度だけ朝見の住む真新しいデザイナーズマンションを振り返った。  世の中には色んな人がいるものだと改めて佐倉は思う。その価値観や趣味嗜好は人それぞれだし、こんな洒落た2LDKの部屋に一人で住む学生がいれば、四畳半の古いアパートに住む佐倉のような学生もいる。 「なんだかなぁ・・・」  初夏の夜空に佐倉はため息を吐く。ひとまずさっきまでの事は一旦忘れて、とにかく新しいバイトを探さねばならない事と、今週中に片付けなくてはならない大学の課題について考えながら、駅に向かってまた歩き出した。
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