1話目

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 私のシフトは22時から始まるが、30分前にはバックヤードに入って準備している。店長にそうするように命令されているわけではなく、自発的にそうしているだけだ。  私と交代するのは準夜勤を担当している井口恭一だ。40代の独身であり、無類の漫画好き。数千冊の漫画を所有していると豪語していた。井口は私が漫画家であることを未だに知らない。ただのおっさんだと思っているみたいだ。  井口と会話できる時間は刑務所の面会時間よりも短いが中身は充実していた。内容を家で決めてきているかのように流暢だ。ほとんどが漫画の話で評論家気取り。私が少しだけマニアックな漫画のタイトルを口にすると、彼のプライドに火を点けてしまうらしく、評論は激しさを増す。その中には「渡辺ロイ」の作品に対する口撃もあった。一度こうなってしまうと「実は僕が渡辺ロイです」と自己紹介することは永久に不可能である。 「ロイはもう才能が枯れているのに、必至にしがみついていて痛々しかったですよね。『すなっふ倶楽部』は確かに面白かったですよ。現代ホラーの代表作です。新しいデバイスを使いすぎですけどね。すぐ古臭くなっちゃうのに」 「なるほど」私は顔を引きつらせていた。 「ホラー漫画で脚光を浴びたのに、人気が低迷したらいきなりエロ漫画みたいなの描いて。みっともないですよ。最近は漫画を描いていないみたいで、ほっとします」井口は口ごもっているがラップのように早口だ。 「へぇ」私の顔は紅潮し、全身から汗が吹き出していた。 「人生は引き際が大事です。それを逃したら無様ですよね」 「一度も成功していない人たちは、引き際を考える必要がないから楽ですよね」私から言える最大限の嫌味だった。 「ええ……そうですね」井口はバックヤードに入ると、帰り支度を始めるのだった。
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