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翌日、俺はあの馴染みの客に言われたとおり、渡された名刺のパティスリーへと向かっていた。
そのパティスリーは都内にあるのに、高層ビルなんて無いような辺鄙な町にあった。
繁華街なんて無いんじゃないかと思えるような町を通っている大きな道を歩いて行って、樹の植えられた散歩道のような所の側にある白い外壁の店を見付けた。
店の前に出されている看板を見ると、名刺に書かれているのと同じ店名が書かれている。
入り口近くにある窓から店内をのぞき込む。レジカウンターの向かいにはたくさんのクッキーやチョコレートが並んでいて、やっぱりこの店にも俺が食べられるものなんて無いのだろうなと思う。
それでも、あの馴染みの客が言っていた、夢をひとつだけ叶えてやるという言葉を思い出して、思い切ってパティスリーのドアを開けた。
「いらっしゃいませ」
レジカウンターに立っている店員が挨拶をしてくる。レジカウンターの下にあるショーケースには、色とりどりの、ほんとうに宝石のようなケーキがたくさん並んでいる。
こんなきれいな飾り物を俺が食べられるはずがない。あの馴染みの客に騙されたのであれば、後で文句を言ってやればいい。
そう思いながらショーケースをよく見ると、ケーキ一種類ごとに、事細やかにアレルギー表示が書かれていた。
思わずおどろいた。ケーキを一つずつ見ていくと、なんということだろう。俺でも食べられるんじゃないかというようなものが少ないとはいえいくつかあった。
生クリームがたっぷりトッピングされたプリンに、フルーツが入っていそうなのにフルーツ不使用の花が入ったババロア。それに米粉のスポンジケーキを使った、小麦粉を使っていないシンプルな抹茶ケーキ。
こんなものを見るのは初めてだった。
思わず動悸がする。
いや、でも、さすがに俺が夢見ているショートケーキは作れないだろう。俺が食べたいと思っていて、俺が食べられる、苺のショートケーキは。
震える手でレジカウンターの上にあるパンフレットを手に取って中を見ると、馴染みの客が言っていたように、たしかにアレルギー対応のケーキのオーダーを受け付けていると書かれていた。
たしかに、ショーケースに並んだケーキを見る限り、アレルギー対応というのは嘘ではないだろう。でも、作れるのか? 果物にアレルギーのある俺が食べられる、苺のショートケーキを。
不安と疑念を抱えたまま、店員に声を掛けてケーキのオーダーをしたいと伝える。すると、レジカウンターに立っていた女性店員がすぐさまに奥の厨房と思しきところへと入っていって、女性店員の代わりに店長とおぼしきでっぷりと太った男性が出てきた。
「ケーキのオーダーですね。
ご注文を承るのに、書いていただく書類が少々多いですので、奥の席へとどうぞ」
男性が俺を店の奥にあるイートインへと通す。そこには四人掛けのテーブルが四つあって、その中のひとつでは、冴えないジャージ姿にウエストポーチの女性が、ひとりでおいしそうに花が中に入っているババロアを食べていた。その顔はあきらかにしあわせそうだった。
ああ、あのババロアは俺にも食べられそうなやつだったな。俺が食べても大丈夫なのかな。でも、食べるのはやっぱりこわい。
そんなことを考えながら少し女性の方を見ていると、男性店員がクリップボードに挟まれた書類とボールペンを渡してきた。
「先ずはこちらにご記入ください」
クリップボードには、問診票が挟まれている。
問診票? パティスリーで注文する時って問診票を書くものなのか。
はじめての経験に少し驚きながら問診票にアレルギーのことを書いていく。果物、小麦、蕎麦、漆、アニサキス、ナッツ類、大豆、ああそれと、甲殻類もか。それ以外にもいくつかアレルギーを書いて、処方されている薬も書いていく。
書いていて思わずげんなりする。こんなにたくさんアレルギーがあることを言語化すると、この店のショーケースを見て少しだけ感じた夢見心地がどこかへと飛んでいきそうだった。
「……できました」
アレルギーの項目を埋めている品目の多さにげんなりしながら男性店員に問診票を渡すと、彼はじっくりとそれを読み込んで、難しそうな顔をする。顎に手を当てて眉を寄せるその表情を見るだけでうなり声が聞こえてきそうだった。
やっぱり俺がショートケーキをワンホール食べるなんて無理なんだ。
そう思って思わず俯くと、男性店員は問診票を置いてその下に挟まっていたオーダーシートを見ている。
それを見て思わずやらかしたと思った。問診票を書くのに夢中になっていて、オーダーシートのことを忘れていたのだ。
文句のひとつも言われるだろうか。そんな思いが過ぎったけれども、男性店員はオーダーシートをクリップボードから外して、俺にもよく見えるようにテーブルの上に置いてペンを持つ。それから、にっこりと笑ってやさしくこう話し掛けてきた。
「これだけアレルギーがあると、問診票の記入だけで大変だったでしょう。おつかれさまです。
それで、どのようなものをオーダーしたいか伺いたいのですが」
「あっ、は、はい」
あれだけアレルギーがあると言われて、それでもオーダーを聞くなんて。思わず驚いた。
言いたいことが沢山ある。頭の中にはずっと夢見ていたショートケーキがずっと浮かんでいて、でも、それを伝えるためにどこから話せばいいのかがわからなくなってしまった。
俺がなかなか言い出せないでいると、男性店員が訊ねてくる。
「まず、ものとしてはなんでしょう。
ケーキですか? クッキーですか? プリンですか? それとも、チョコレートですか?」
「えっと、ケーキです」
「なるほど、ケーキですね。
では、どのようなケーキをお求めでしょうか。
どんなクリームがいいとか、フルーツは使いたいかとか、ナッツは使いたいかとか。
無理だろうとは思わずに、まずはお聞かせください」
無理だと思うななんてそれこそ無理だ。
それでも、俺は少しずつ作って欲しいケーキのことを断片的にとはいえ、少しずつ男性店員に伝えていく。
やわらかいスポンジに、甘くてふわふわの生クリーム。それに、絶対に外せない、宝石の赤よりもきれいな赤い苺をたっぷり使って欲しい。
そう、スポンジに挟む苺もごろっとしていて、ケーキの断面からみずみずしさが伝わってくるような……
俺の要望を、男性店員がオーダーシートに記入していく。
オーダーシートが埋まっていくにつれて、俺はなんて大それたことを言っているんだろうと後悔しはじめた。これでケーキを作ってもらっても、食べられないかもしれないのだ。
「このような内容でよろしいですか?」
男性店員が改めてオーダーシートを俺に見せる。文字だけしか書かれていないけれども、その紙の上には、俺の理想の苺のショートケーキがありありと浮かんで見えた。
「はい、これでお願いします」
ほんとうに、ほんとうにこんなショートケーキを俺が食べられるのだろうか。俺が食べられるように作れるのだろうか。
きっと断られる。
そう思った次の瞬間、男性店員はこう言った。
「かしこまりました。
承らせていただきます」
その声と表情は堂々として自信に満ちている。
受けてもらえたという安心感が湧いてくると同時に、不信感も湧いてくる。
どうしてこの男はそんな自信満々に、これだけアレルギーのある俺でも食べられるショートケーキを作れるだなんて言うのだろう。
買って帰った後なら、アナフィラキシーを起こして死んでも知ったことではないということなのか?
それでも、俺はこの男性店員に縋りたかった。
そう、これはきっと仏様の蜘蛛の糸なんだ。もし途中で切れたとしても、掴まなければいけないものなんだ。
男性店員に促されるままにレジカウンターへ向かい、覚悟を決めて内金を支払う。
それから、この店の腕前をあらかじめ確認しておくために、確実にアレルギーが出ないであろうシンプルなプリンを一個買っていった。
家に着くまで、ずっと脚が震えていた。
ああ、注文してしまった。苺のショートケーキを。
これから俺はどうなるんだろう。プリンの入った紙箱を抱えたままソファに沈み込むように座って紙箱を開ける。中にはプリンと、箱の内側に動かないようにテープで固定されたスプーンと個包装のアルコールシートが入っていた。
早速、箱から剥がしたアルコールシートで手を拭いてスプーンの袋を開ける。プリンは透明なプラスチックの容器に入っていて、蓋は被せるタイプだ。
蓋を取ってプリンをひとくち食べる。
たまごの素朴な香りと砂糖の甘味。バニラを使うなんていう小細工なしで、直球で来る懐かしい味だ。
こんなにおいしいものを食べてしまったら、依頼したショートケーキのできに期待が膨らんでしまう。
期待すればするだけ、食べられなかったときの絶望も大きくなるのに。
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