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ある日の夜、気分転換に行き付けのバーへと行くことにした。
そのバーは高級店が入るビルが建ち並んでいるところにある。
地下にあるので一見すると見付けづらい店だけれども、会員制を謳うほどの高級店なので、アレルギーについて店員に伝えればしっかりと対応してくれるので安心して外食ができるところだ。
街灯が少ない街中を歩いて、控えめに置かれている木の看板の側にある階段を下りていく。階段を下りた先にはウォールナットでできた扉があって、横に黒服が立っている。その黒服に店の会員証を見せるとうやうやしく扉を開けたので、馴れた足取りで店の中へと入る。
店内は地下にあるにしては広くて、落ち着いた照明が灯っている。
揃えられているテーブルや椅子、それに照明機器はアンティーク調で揃えられているけれども、実際にアンティークの品というわけではなく、すべて同一のメーカーにオーダーして作らせたものらしい。
俺がいつも使っているのはカウンター席。そちらの方を見ると、もうすっかり顔馴染みになっている男性客が座っている。やつの隣の席が、俺の定位置だ。
俺は黙って席について、店員に注文をする。この店員ももうすっかり馴染みになっていて、俺のアレルギーのことはすっかり把握している。
ああ、でも、今日はこれを伝えないと。
「なにか食べられるものを。
大豆も駄目になった」
「かしこまりました」
店員は軽く頭を下げて厨房に俺からの注文を伝える。
さて、今日出されるのはなんだろうか。なんだろうもなにも、さすがにこの店でも似たようなものしか食べられないのだけれども。
それでも、サラダチキンとおにぎりだけよりはおいしいものが食べられるし、なにより痒くなったりアナフィラキシーで死ぬよりははるかにましなのだ。
とりあえず酒も注文しよう。そう思ってドリンクメニューの表を受け取り見てみると、新しいカクテルがあるのを見付けた。
そのカクテルは、純粋なアガベシロップを蒸留して作ったスピリタスをソーダで割ったシンプルなものらしい。
アガベのスピリタスは飲み口がクリアだと聞く。けれどもストレートで飲めるほど俺が酒に強いわけではないので、このカクテルは試してみたい。
そう思ってメニュー表をなぞり注文しようとすると、隣から声がかかった。
「やめときな」
なんだ。ソーダ割りでも飲めないほど俺が酒に弱いとでも思っているのか?
そう思って、俺は不満そうになじみの客に言葉を返す。
「なんでだよ。
これ一杯くらいで酔い潰れるほど弱くないのは知ってるだろ」
すると、なじみの客は頭を振ってこう言った。
「俺もそのカクテル飲んだけど、隠し味でフルーツ缶のシロップが入ってる。
それだとやめておいたほうがいいんじゃない?」
思わず体が固まった。
「おまえ、果物のアレルギーあったよね?」
「まぁ、うん。でも……」
確認するような馴染みの客の言葉に、俺は悩む。
フルーツ缶のシロップくらいだったら飲んでも大丈夫かもしれない。果物のアレルゲンがシロップに溶け出してるとも限らないし、もし溶け出していたとしても隠し味に使う程度ならそんなに入っていないだろうし、ショートカクテルなのだから、致死量にはならないはずだ。
ああ、でも……
体のむず痒さとアナフィラキシーを起こしたときの苦しさを思い返す。
やっぱりこのカクテルはやめておこう。万が一のことがあったらどうしようもない。なんせ今日はエピペンを持ってきていないのだ。もし仮にエピペンを持ってきていたとしても、なるべく危険は避けたい。
それにしても、どうしてこのカクテルにフルーツ缶のシロップを使っているというのをメニューに書いていないんだ。馴染みの客がいなかったら、俺はうっかり注文しているところだったんだぞ。
そのことについイラついていると、馴染みの客が青と黄色のロングカクテルをひとくち飲んで、にやっと笑って俺に言う。
「どうした?
ずいぶんイラついてるみたいだけど」
そのカクテルをわざわざ飲んでからそんなことを言うのは俺への当てつけか?
南の海みたいにきれいな青色と鮮やかな黄色が二層になっていて、柑橘のリキュールとオレンジの果汁を使っている、匂い立つように真っ赤なさくらんぼが乗った、俺には手が出せないカクテルを見せ付けて。
苛立ちがつのって、俺はつい笑い出す。
「当たり前だ!
わかんないだろうよ、おまえにはわかんないだろうよ。
食べたいものを好きなように食べられるおまえにはさ!」
すると、馴染みの客は俺によく見えるように、カクテルに乗っていたさくらんぼを大袈裟な仕草で口に入れてにやりと笑う。
「わかんないねぇ」
それから、ペーパーナプキンを一枚取って、それにさくらんぼの種を出して包み、開かないように捩っている。
こいつは食べたんだ。さくらんぼを。
こいつは飲んでいるんだ。オレンジを。
こいつは食べられるんだ。俺には手が出せない宝石を。
「なんだよ、当てつけかよ」
思わず俺がそう言うと、馴染みの客はしたり顔をしてすっとぼける。
「ん? どうだろうね」
それからまた、俺に見せ付けるようにカクテルに口を付けた。
その姿があまりにも妬ましくて、憎らしくて、もう笑うことしかできない。心の中にずっと降り積もってきた鬱屈としたものではちきれそうだった。
「急にごきげんだね」
馴染みの客が言う。俺が機嫌が良くて笑っているわけじゃないのをわかっててこれだ。なんてむかつくやつなんだろう。
頭にきて、俺は怒鳴るわけではないけれども、大きな声で馴染みの客に言う。
「ああ、ごきげんだよ。
俺には欲しいものをなんでも買うだけの金があって、家だって服だって家具だって靴だって腕時計だって、欲しいものをなんでも買ってきたんだ。
俺に騙されたカモたちのおかげでね。
そうだよ。俺は悪どくいくらでも稼げるんだ。
それなのに」
そこでいったん言葉を切ると、馴染みの客はカクテルグラスを撫でながらじっと俺を見る。
「それなのに?」
こいつはわかってるだろうに。俺が欲しくても手が届かないものがあることを。だって、何度もこの店で隣り合って、何度も話して、たまにむかつくようなことを言われながらも、こいつは俺がアレルギーを持っていてそれで苦しんでることを茶化したり否定したりせずに受け入れてくれたんだから。
そう思ったけれども、あえて俺は言いたいことを続けて言う。
「それなのに、アレルギーのせいでほんとうに食べたいものは食べられない。
おまえにはわかんないって言ったよな。
好きなものを好きなように食べられるおまえにはさ!」
頭の中で今までにあったことがぐるぐるとまわる。アレルギーだなんて好き嫌いをしてるからそうなるんだと言って、食べられないものを無理矢理食べさせようとするやつや、それはただの思い込みだから食べてれば治ると説教してくるやつ。そんなやつが何人もいた。好き嫌いで食べられないわけじゃないのに。食べられるのなら食べたいものがたくさんあって、それでも食べたら死ぬという事実を知らないやつの勝手な言い分。そんなのがたくさん思い起こされた。
目の前で俺をじっと見ている馴染みの客は、そんなことをしないやつだ。時々ああやって俺の食べられないものを見せ付けるように食べることはあるけれど、それでもまだアレルギーに理解のあるほうだろう。
わかってる。俺はこの馴染みの客といるときは安心できる。それでも抱え込んだ不満をぶつけずにはいられなかった。
俺の言葉をひとしきり聞いた馴染みの客は、柑橘のカクテルをひとくち飲んで、少し俺を見下ろすように見てこう言った。
「なるほど?
それなら、例えばだけどなにを食べたい?」
そう訊ねられて、今までに食べたかったけれども食べられなかったものがたくさん浮かんできた。
ししゃもの竜田揚げ、カレー、クラムチャウダー、揚げパン、フルーツゼリー、ナッツの入ったチョコレート、それに……
真っ赤で艶やかな、宝石みたいな苺が乗ったショートケーキ。
どんな宝石店に並んだ、どんな宝石よりもきれいだと思ったショートケーキ。それが一番鮮やかに思い浮かんだ。
俺は少し言葉を詰まらせてから、震える声でこう答える。
「……ショートケーキが食べたい」
「ふーん、ショートケーキね」
「ああ、ショートケーキだ。
それも、苺がたっぷり挟まってて、きれいな苺がいくつも乗ったやつを、ワンホールまるまる食べたい」
まくし立てるようにそう言って、でも、そんなことは叶えられないんだと、今になって涙がにじむ。
「夢なんだよ。あの、宝石みたいなケーキを食べるのが……」
つい弱々しくそう言った俺の目から、涙が一粒落ちた。
すると、馴染みの客は懐から名刺入れを出してきてこう言った。
「それなら、おまえの夢をひとつだけ叶えてやるよ」
それから、名刺入れから名刺を一枚取りだして俺に渡してきた。
その名刺には馴染みの客の名前は書かれておらず、代わりにどこかの店の名前とホームページのアドレスが、裏面には住所と最寄り駅からの地図が書かれていた。
なんだこの名刺は。そう思ってもう一度表面の店名の所を見ると、パティスリーと書かれている。
俺がパティスリーなんて行っても、惨めになるだけなのに。苛立ちと泣きたい気持ちでぐちゃぐちゃになっていると、馴染みの客はまたにやりと笑ってこう言った。
「そのパティスリーなら、おまえの夢を叶えてくれる」
どういうことだろう。
わからなかったけれども、馴染みの客の目をよく見てみると、妙にやさしいような気がした。
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