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あのパティスリーからどうやって帰ってきたのかわからないままに、家に着いた俺は真っ先に苺のショートケーキをテーブルの上に置いて念入りに手を洗った。
スーツから着替えている余裕なんて無い。一刻も早くあのショートケーキを食べたかった。
台所から包丁を持ってきて、箱から出した苺のショートケーキを八等分にする。
とりあえず、一切れだけ食べてみよう。それで駄目だったら残りは捨てよう。
恐る恐る宝石のようにつやつやした苺にフォークを刺し、口に入れる。柔らかくて甘くて、少しだけ酸っぱい。
苺を食べてしまったのだから、もう後はなるようにしかならない。今度は生クリームと一緒にスポンジを食べる。甘くてふわふわしていて、これがケーキというものなんだと感動を覚えた。
ショートケーキを一切れ食べきって、俺は急いで薬箱の中からエピペンを取りだしてきて、またソファに座る。
目の前には、ショートケーキがまだ七切れ残っている。でも、すぐに食べるのはこわい。
ショートケーキを眺めていると、また手と脚が震えてきた。
どうしようもない恐怖を感じて膝を抱える。頭の中に、昔に経験したひどい思い出が駆け巡っていく。
中学生の頃のバレンタインに、気になっていた女子からもらったチョコレート。
なにも疑問に思わず、よろこんでひとくち齧ったらぎっしりとアーモンドが入っていた。
たしかにそのチョコレートはとてもおいしかった。
喉が焼けるように甘いミルクチョコレートに、香ばしくて歯応えのいいアーモンド。おいしくないわけがない。あれを食べた瞬間、俺はたしかにしあわせを感じた。こんなにおいしいものをもらえるなんて、きっと俺はあの子にとって特別な存在なんだと確信した。天国にいるようだとまで思った。
けれども、次に待っていたのは地獄の苦しみだ。体中が腫れて、呼吸ができないくらいに喉が詰まって、動くこともままならなくなる。視界もぼんやりする中で、机の中からなんとかエピペンを探し出し、まともに力を入れられない手でぎゅっと握って精一杯太股に突き刺した。
注射の針なんて比べ物にならないほど太い針が太ももの筋肉に刺さるのはひどく痛かった。腫れていて過敏になっているところに刺すのだからなおのことだ。
エピペンを刺しただけで済むわけもなく、その後救急搬送されて抗アレルギー剤を何時間もかけて点滴された。
点滴自体はそこまで痛くなかったけれども、点滴を受けている間、体中の腫れが引くまでずっと苦しかった。その苦しみが永遠に続くんじゃないかと思ったし、永遠に感じた。
実際には苦しみには終わりがあったのだけれども、それでも時計を見たらゆうに数時間は苦しみ続けていたようだった。
そしてなんとか体の苦しみが終わった後には、あの子の思いを受け取る権利が無いのだと自責の念に駆られた。次にあの子に会ったとき、申し訳なさと苛立ちと恐怖で謝ることしかできなかったし、つい、もう顔も見たくないとまで言ってしまった。そのとき、胸が張り裂けるように痛かった。
今でもあのときの苦しさをありありと思い出せる。もうあんな思いはしたくない。
それなのに、俺はアレルギーのある苺のショートケーキを食べてしまった。
あの時みたいにアナフィラキシーを起こすのがこわくて、親身になってくれたあのパティスリーにあたりちらしてしまうのがこわくて、とにかく不安でしかたなくて、年甲斐もなくソファの上で膝を抱えた。
エピペンを握り締めたまま膝を抱えて、恐怖で脅えて、目の前の苺のショートケーキが目に入らないように顔を伏せた。
こわい。
こわい。
こわい。
過去のことに飲み込まれながらただ時間が経って、恐怖が去るのを待つ。
しばらくそうしていてふと気付く。アナフィラキシーを起こすようすがない。
はっとして時計を見ると、ケーキを一切れ食べてから一時間半が経っていた。
一時間半経ってもアナフィラキシーも痒みも起こさない。ということは、この苺のショートケーキには、ほんとうに俺が食べられないアレルギー物質が入っていないのだ。
信じられなかった。
こんなにおいしくて、味だけだったらほんとうに苺も小麦も使ってるとしか思えないこのショートケーキを食べても平気だなんて。
思わずエピペンを取り落として手を見つめる。全然腫れてもいない。皮膚が赤くなってもいない。
俺はケーキの側に置きっ放しになっていたフォークをまた手に持って、夢中でショートケーキを食べはじめた。
甘い。酸っぱい。ふわふわしている。ショートケーキっていうのは、こんなにおいしいものだったんだ!
この苺が作りものだっていうのは、俺にだってわかってる。店で見たときからそれはわかっていた。
それなのにこの苺はどうだ! 果物アレルギーを出す前、すごくすごく小さな頃にたった一度だけ食べて、ずっと記憶に残り続けていた苺と全く同じ味じゃないか!
スポンジは、今はじめて食べたからこれが正解なのかどうかはわからない。
でも、正解でなくてもいいと思った。そう思えるくらいこのショートケーキはおいしい。
甘酸っぱい苺と生クリームが混ざり合って、それをやわらかいスポンジが包み込む。それを口の中で感じて噛みしめる。
ふと、病院の近くにあるケーキ屋のことが頭に浮かぶ。あそこで何度も見て、ずっと手が届かないと思っていたきれいな宝石。きれいな飾り物。
俺は今、ずっとずっと羨んで、妬んで、憧れていた宝石を食べているんだ。
夢中で食べているうちに、ショートケーキはあっという間にワンホール無くなった。
なんてしあわせなんだろう。あの馴染みの客が言ったとおり、俺の夢がひとつ叶った。
そのことがうれしくて思わず涙が零れる。ショートケーキが無くなったのが名残惜しくて、未練たらしくフォークを嘗めながら、あのパティスリーに思いを馳せる。
あの店なら、俺が食べたいケーキをもっと作ってくれるかもしれない。
いや、ケーキだけといわず、クッキーだってチョコレートだって、フルーツのゼリーだって作ってくれるかもしれない。
そう、このケーキを作った男性店員は、食べたいものがあったらケーキに限らずなんでも相談してくれと言っていたっけ。
スイーツ以外のオーダーは受けられないけれども、代替え品で再現する方法を一緒に考えてくれるって、そう言っていたっけ。
あのパティスリーに行けば、全部は無理でも俺の夢はいくらか叶えられるんだ。
また行こう。あのパティスリーに。
そう思って、部屋の中を見渡す。次のカモを待っている情報商材が目に入った。
俺は意を決して、フォークを置いて立ち上がり、情報商材を手に取る。
次に夢を叶えるときは、きれいなお金で叶えるんだ。誰かを騙して毟り取ったような悪どいお金じゃなくて、正当な手段で稼いだお金で、夢を叶えていくんだ。
次に叶える夢は、きっと夕焼け空よりもきれいなように。
蓋付きのゴミ箱についたペダルを踏んで蓋を開け、その中に情報商材をすべて放り込んだ。
その瞬間、掴んだ蜘蛛の糸を仏様が引き上げたように感じた。
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