第1話 アーリー・スプリング1

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 路雄の記憶にある声よりも低く聞こえたが、常に笑みを含んだような声音は思い出と重なる。その言葉はかつて紗也子が口にしたことのあるもので、幻に過ぎないとわかっていても紗也子がよみがえったような喜びを与えてくれた。 「遠くまで来たかいがあっただろう」  紗也子から返事はなく、彼女の手に触れても反応はない。しかし肌の質感や温もりは確かに路雄の手に返ってきた。  互いに三十代の後半を過ぎてからの出会いであった。紗也子は子供を諦めていなかったから残された時間が少ないことを自覚し、路雄も彼女を逃せば次はないという予感があった。交際開始から婚約までは約一年だったが、三十代後半のカップルとしては平均的な時間であっただろう。紗也子が事故で亡くなったのは結婚式場を決めようとしていた矢先のことで、約束もその直前に交わしたものだ。結婚前に教会を見ることで、幸せな気分を増幅したかったのかもしれない。  自分たちの時間には、いつも無言になる瞬間がある。部屋の中でも、街の中でも、口を開かずにいると互いに愛情を深く確かめ合えるような気がする。今日は木々のざわめきと鳥のさえずりを聞きながら二人の時間を過ごした。
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