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⑦僕は模範的な行動を心掛けたい
「AYAKAさん、はじめまして」
そのメッセージは唐突に、ゲーム画面のメッセージ欄に紫色の文字で映し出された。
「ユグドラシル・マスターズ」において、チャット欄のメッセージは発信する対象の範囲によって文字色が変わる。全世界に発信する世界チャットなら白文字、パーティ内のチャットなら緑色、個別チャット(通称、耳打ち)なら紫色といった具合に──。
つまり、そのメッセージは僕だけを対象に誰かが耳打ちしてきているということだった。予期せぬ事態に慌てふたむき、思考はすぐに停止した。僕はしばらくのあいだ、ただ茫然とそのメッセージを眺めていることしかできなかった。
「あれ、離席中ですか?」
ふたたび流れてくる紫色のメッセージ。あきらかに、誰かが僕にたいして話しかけてきている。深呼吸をひとつして、発信者の名前を確認する。たしか「タクヤ」とか「ハヤト」とかそんな感じの日本男性の名前の後ろに「0625」とか「0817」といった感じの、誕生日のような数字四桁が続く、当たり障りのないユーザーネームだったと思う。その程度の、特に印象にも残らない名前だったのは間違いない。
紳士でかつ、二児の父でもある僕は、常に模範的な行動を心掛けねばならない身の上。話しかけてきたひとを無視するなど、紳士として言語道断である。僕は勇気をふりしぼり、その男のメッセージに返事をする決意をした。思えばこれが「ユグドラシル・マスターズ」における、はじめての会話だったと思う。
「あ、はじめましてー」と僕はメッセージを入力した。なぜか語尾が伸びた。きっと照れ隠しだ。なんとなく「はじめまして」だけだと冷たい気がして、語尾を伸ばしてしまった。べつに可愛く見せようとか、そんな邪な感情を抱いていたわけではない。
「AYAKAさん、初心者さんかな? よければレベル上げ、お手伝いしようか?」とタクヤは言った。なんと、二言目からさっそくタメ語だった。
出会ってからまだ数秒しか経っていない。会話のストロークは成立したばかり。その二往復目から、タクヤはすでにタメ語を使いはじめた。
初心者だからってなめているのか、そもそも敬語が使えない無礼なやつなのか。僕はタクヤの発したタメ語に面を食らい、ふたたび返事に戸惑ってしまった。
「あ、ごめん。都合悪かったかな。あくまでAYAKAさんがよければの話なので!」とタクヤは慌てた様子で重ねてきた。
──マジ、イケメンだと思った。
タクヤはタメ語しか使えないやつかもしれない。きっとアルバイトや部活動の経験がないのだろう。しかし、そんなことはゲームをやるうえではなんの関係もないことだ。この男はしっかりと礼儀をわきまえている。僕と同じくらいか、はたまたそれ以上の紳士であった。
僕は男として、一瞬にしてそのタクヤの紳士的な態度に惚れた。いや、惚れ申した。なんやこいつ、かっこよすぎるやん……と思わず使ったこともないような下手な関西弁を漏らしてしまうほどに感動した。
「あの」
「うん」
「私でよければ、是非お願いしたいです」
ひとまず、なにかリアクションをしなくてはと思い、急いで発した言葉が「あの」だった。タクヤはその言葉にたいして、即座に「うん」と頷いてきた。たいした反応速度である。
それから僕は至極丁寧に、紳士であるタクヤに対して心の底から紳士的な態度でお返しするように返事をした。これはもはやビジネス会話である。一人称は「僕」でもない、「俺」でもない。「私」でなくてはならない。そう思った。
──しかし、それが大いなる過ちのはじまりだった。
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