幻燈海月

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 県内屈指の進学校に落ち、滑り止めの私立高校に通い始めて7ヶ月が過ぎていた。大学受験は何としても成功させなければならない。そう考えているのは私ではなく、私の母親だった。私の日常は、ただ淀んでいた。  中3の春休みから個別指導の塾に通い始めた。これについても私自身の希望でそうしたのではなく、母親の希望に過ぎなかった。集団塾に通っていたときと比べて、当然ながら受講費用は跳ね上がった。諸費用込みで毎月5万円近く塾に支払っているという。週に2回通っているので、1回の受講費用は平均して5千円前後といったところか。  物価はあがるばかりだが、夫の収入はあがらず、しかも、私立高校に通う羽目になったできの悪い娘のおかげで、学費と塾代が家計を圧迫しているというのは歴然なのに、いわゆる「ママ友」たちに対する見栄のために、何としてでも専業主婦を貫きたい母親には、外に働きに出るという選択肢はないらしかった。無論、私に対しバイトをするよう求めてくることもなかった。  昔から私の母親は、どこからか不幸の知らせが入ってくると、真っ先に香典の金額を気にするような人だった。あるいは、近しい誰かの、めでたい知らせが入ってきたときでさえ、メカニズムはまるで同じで、祝儀の金額をいくらにすべきかと、眉間に皺を寄せるのだった。  今の自分の立ち位置、今現在、自分が操れる金や人、それだけが全ての母親にしてみたら、私が塾の講義を休むことは多大なる「損失」に他ならない。1回休めば、5千円の損出。2回休めば、去年の冬、隣の佐伯(さえき)家に渡した香典の金額と同額になるだろう。6回休めば、秋口に結婚する従姉妹の令花(れいか)さんに渡す予定のご祝儀と同じ金額になる。私はあるときふと、このシステムに気づいてしまったのだ。そして私は、塾を休むことに快感を覚え始めていた。
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