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本当の涙
外出した私は驚いた。
あの日が最後だと思っていたのに、文孝がまた現れたのだ。
彼との交際期間は2年。
彼が死んでから2年。
ついに本当のお別れのタイミングが来たと、私が勝手に思い込んでいただけだった。
地下鉄に乗ろうとホームに立っていると、反対ホームから私を見守っていた。
でも今までと違うのは、分かりやすく晴れ晴れとした良い表情をしていること。
私が微笑み返すと、文孝は嬉しそうに笑った。
いくら嬉しそうに笑っても、まだ彼を見えてしまうのは私にとって決して良いことではない。
やっぱり、私が涙を流さなかったから、この世への未練が捨て切れないのだろうか。
反対ホームにいる彼を見てから私は、自分の手を眺めた。
文孝が触れた私の左手。
あの温もりのない手の感触を何度も思い出した。
敢えてそうするみたいに。
ふたたび反対ホームを見るとやっぱりそこに文孝はいて、私の手は熱を持っているのだった。
私が地下鉄に乗って向かおうとしたのは、あの河川敷だった。
文孝との初デートの場所。
それなのに、どうしてかその日の私は、河川敷に行けなかった。
文孝が見ているからだ。
あの夜を境に、何かが変わったからだ。
色々な言い訳を考えつくだけ考えた。
私は、地下鉄に乗らずに来た道を戻る。
文孝はついて来なかった。
河川敷は、地下鉄に乗るほど遠くにあっただろうか。
文孝はその後も消えずに姿を現し続けたが、家には現れなかった。
また家にやって来られたら、さすがに私も参ってしまう。
結局、休暇の間はほとんどを家の中で過ごし、気分転換や食料品の買い物、運動不足解消も兼ねて外に出れば、文孝を見つけた。
文孝に見つけられたという表現の方が、本当は正しいのかもしれないけれど。
休みに意味があったのか、分からない。
読みたくても読めずにいた本を沢山読めたとか、眠たくなれば好きなだけ寝られたとか、そういう幸せは感じた。
でも、有意義に使えたかは分からない。
何せ、幽霊の文孝は見え続け、さらには家にまで現れてしまったのだから。
休暇を終えた私の最初の仕事は女性向けファッション雑誌の撮影とインタビューだった。
様々なヘアスタイルに、メイク、衣装を何度も着替えた。
濃いメイクに、幼く見えるメイク。
ドレスっぽいものから、カジュアルな服。
コロコロと変わる自分の姿を見るのには、未だに慣れない。
私が何人もいるようだ。
褒め続けるカメラマンにスタッフ。
羨ましがられる仕事だろうし、幸せも感じる。
でもやっぱり、笑顔だらけのスタジオに私は、慣れるということはないと思う。
撮影を終え、少し広めの部屋に移動し、雑誌に掲載するインタビューが始まった。
プライベートな質問から、仕事への心構え。
好評だった宗崎祐輔とのW主演作について、インタビュアーの女性が聞いた。
「宗崎祐輔さんとは、デビュー前から一緒にレッスンを受けていたそうですが、前回の共演作が大ヒットでしたね。特に、あの橋でのシーンが話題になりました。今ではロケ地がとても人気だそうです」
私が舞台挨拶で、印象に残っているシーンとして話したのを思い出す。
「そうですね。あのシーンほど美しいのは珍しいと思います。光や色合いが二人の感情を際立たせていました」
本当にそうなのだろうか。
あのシーンよりも、もっと美しいシーンはあったはずだ。
涙。
私を引き寄せて離さない、涙。
「他に、記憶に残るシーンやエピソードはありますか?」
「あと・・・短いシーンなんですが、元恋人とのキスシーンも記憶に残っていて。あの涙に、心を動かされました。あのシーンがきっかけで、映画自体の物語が動き出す訳ですから」
私はすぐに自分の発言を後悔した。
文孝に初めて話し掛けた瞬間みたいに。
いや、それ以上に。
言わない後悔より、言ってしまった後悔の方が嫌いなのに、と。
休み過ぎたせいか、集中力が欠けてしまい、仕事モードではなく自分の感情を優先してしまった。
自分の感情や本当に大切な気持ちは隠すべきなのに、隠すのを得意とすべき立場なのに、自分でも驚いてしまう。
文孝が現れた夜のせいだ。
それに、文孝が今も現れ続けるせいだ。
あの夜のことを思い出しながら、涙を流していたキスシーンの彼も思い出す。
インタビュアーは”キスシーン”というワードのせいか、異様なほど私の発言に興味を持ったようだった。
私は、
「すみません、何でもないんです。さっきの発言は撤回で」
と話を流そうとした。
ただ、インタビュアーはなぜか私を不思議そうに見てもいた。
どこか戸惑ってもいる。
「元恋人とのシーンですか?ええと・・・元恋人とのシーン?宗崎さんとの映画のお話ですよね?詳しく教えて頂いてもよろしいですか?」
「いいえ、違うんです。ちょっと間違っちゃって。次の質問にいってもらってもいいですか?」
どうにか違う話に移りたくて、私は険しい顔をわざと作った。
これ以上質問させないように。
あの涙のキスシーンへの想いは、絶対に隠さなくてはならないから。
どうして初めて会った相手に、信用なんて出来ない相手に話してしまったのだろう。
もう一度彼に会いたいという気持ちがある以上、この想いがバレるのはまずい。
私は次こそ、自ら行動したいと思っていたのだ。
文孝がエキストラに参加し、私に会いに来てくれた時みたいに。
名前も知らないあの俳優に、キスシーンで涙したあの人に自ら会いに行きたい、と。
あの夜、家に現れた文孝が言っていた、
「理由なんて考えず、人目なんて気にせず、ただ進めばいい」
という言葉を思い出さずにはいられない。
ふと部屋の奥を見ると、文孝がいた。
さっきまでいなかったのに。
微笑みながら、こっちを見ている。
まるであの夜、
「涙は自然に、それでいて愛しい想いに包まれて流れるはずだ」
と言った時のように、私の幸せを願ってくれる表情で。
仕事中に現れるのは嫌なはずなのに、今はどうしてか嫌な感じはなかった。
少し安心している自分もいる。
インタビュアーは、私の視線の先を振り返って見た。
彼女にはやはり文孝のことは見えなかったようで、すぐに私の方に向き直る。
そして、気を取り直すような声で
「じゃあ、次の質問にいきますね。すみません、元恋人とのキスシーンなんてなかったのにな、と考えてしまっていたんです。もしかして、泣く泣くカットされたんですか?実は私、2回観たんですよ。青川さんと宗崎さんの大ファンですし、本当に良い映画だったので。だから見逃す訳がありません」
と言った。
自信満々のインタビュアーに、私は戸惑ってしまう。
「カットには、なっていないはずです。私も観ましたし・・・」
「そんなシーンなかったですよ。それとも青川さん、沢山の作品に出演されてますから、混ざってしまったんですか?」
この人は何を言っているのだろう。
いくら出演作が多くても、他の作品と記憶が混ざったりするなんて・・・
その時、何かが歪むような、嫌な感覚があった。
待って。
もしかして・・・
地下鉄の反対ホームに文孝を見た日。
どうしてあの日、河川敷に行くことができなかったのか。
そもそも私はそこに、一度しか行ったことがないのではないか。
しかもその一回さえも、何も考えずに、マネージャーの運転する車に乗って行ったから、行き方なんて分かるはずがない。
たくさんのカメラや人に囲まれて、決められた言葉を放っただけの場所。
お気に入りでも、思い出でも、秘密でもない河川敷。
他にも、意識して左手を使うようにしていた日々や左手で箸を持つ練習をした日々が蘇る。
そして、あのキスシーンと、名前も知らない俳優の流した涙が、急に物凄く遠い日のように感じられた。
俳優の顔がぼやけていく。
あの人は一体誰。
あの涙の意味は何。
記憶が私の思考と結びつかなくなる。
私は自分で思いついた発想を、信じられずにいる。
まさか、とか、そんなのあり得ないとか。
否定したい気持ちが溢れすぎて、今度は自然に険しい表情になっているのが自分でも分かった。
つまり、文孝との日々は、全て芝居上での出来事だった。
私は自分のこれまでを、勘違いしていたのだろうか。
「青川さん?大丈夫ですか?」
時間の感覚や、立場など、何も分からなくなった。
「元恋人とキスするシーン、ありませんでしたか?」
私はインタビュアーに聞く。
インタビュアーは引き攣った笑顔で、
「ありませんでした・・・違う映画とかドラマと勘違いされてるんだと思います」
と言った。
待って。
部屋の隅にいる、私に見えている人は、文孝?
でも、文孝との日々は、芝居だったとさっき気付いて・・・
「すみません、ちょっと休憩させてもらってもいいですか?青川さん、ちょっと出ましょうか」
マネージャーがインタビューを中断させ、私を支えながら外に出た。
私より一つ年下で、担当になって6年目の女性マネージャーは、とても細く、その頼りなさに、私は自分の力で懸命に歩いた。
でも彼女は私を必死に支えようとしてくれた。
彼女への申し訳なさを感じながら、これまでの彼女の真っ直ぐさや、真面目な態度、時には友達のように話し相手になってくれた日々を思い返す。
そして今、彼女から、ただならぬ緊張を感じる。
初めて見る表情だ。
深刻な何かがあると悟る。
「青川さん・・・」
建物の外のベンチに私が座ると、マネージャーは困った様子で立ち尽くしていた。
外の空気は心地よい気もしたけれど、私の身体の外側を涼めるだけで、内側には一つも良い影響を与えてくれない。
マネージャーは私の様子をチラチラ見ながらスマホを取り出し、誰かにメッセージを送っているようだった。
私は自分の手に触れ、箸やペンを持つのはどっちの手なのかを考えたりした。
手の温かさを確かめたりもした。
今日は温かいというより、熱っぽい。
手は、いくら風が当たっても、あの夜の文孝の手の冷たさを考えても、熱を持ち続けていた。
私がマネージャーにようやく声を掛けることができた時、どれくらい時間が経っていたのか分からない。
気が付かないうちに、ペットボトルの水がそばに置いてあった。
そういえばさっき、マネージャーが持ってきてくれた気もする。
「何から聞けばいいのか分からないし、多分、沢山迷惑をかけてきたんだろうって感じてる。これが夢だったらいいなとも思ってるし、早く現実を知りたいとも思う。怖くもある」
マネージャーは私に声を掛けられ、体をビクッとさせた。
彼女の緊張がふたたび伝わる。
「青川さん。聞きたいこと、聞いて下さい。私が分かることはちゃんと説明します」
「あのキスシーンは?いつのことなのか分かる?相手役の俳優が泣いてたキスシーン」
マネージャーは私の隣にそっと座り、大きく深呼吸した。
意識してそうしたというよりも、緊張から逃れる為に、本能がそうしてしまった様子だった。
「青川さん。あのキスシーンを撮影したのは、5年前です。相手は文孝さんです」
私は言葉を失った。
今、私が気になり続け、会いたいと願っている相手は文孝だったのだ。
その文孝は既に死んでいるはずだ。
「文孝が撮影?えっと、ちょっと待ってね」
あのキスシーンのあの俳優。
思い出せなくなっていた顔が、文孝の顔になる。
これまでは一体、誰に当てはめて考えていたのだろう。
今は間違いなく、文孝の顔で、あのキスシーンを思い出せる。
涙を流したのも確かに、文孝だ。
「おそらく、青川さんが自分の過去だと思っている文孝さんとの出来事は、全てお芝居です。文孝さんとのお芝居。まず初めに、お二人はキスシーンで共演します。文孝さんが涙したあの短いキスシーンです。それから1年後、別の作品でお二人はまた共演します。そこでは、青川さんが有名女優役、文孝さんが役者を夢見る青年の役でした」
マネージャーは混乱する私に気付きながらも、真実をようやく話せる、緊張が多く含まれた興奮の中にいるようだった。
私に早く真実を知ってほしくて、慌てているようにも見える。
もしかすると、いつこのタイミングが来ても良いように、どうやって話すか考えていたのかも知れない。
「それから?」
私はただ、真実を知りたいだけだった。
自分がどうしてそんな勘違いを、勘違いというより、記憶違いをしていたのか。
「それから、5年前のキスシーン。お二人は初対面ではありませんでした」
「どういうこと?」
マネージャーは一呼吸置いて、話し始めた。
「宗崎さんに聞いたんですけど。今から12年前。文孝さんは、青川さんと宗崎さんと一緒に演技のレッスンを受けていて・・・」
私は、裕輔と二人で共に役者として成長し、助け合ってきたと思っていた。
でも12年前、裕輔だけではなく、文孝も一緒にいたということになる。
地面を見ていた視線を上げると、遠くに文孝が立っていた。
「お二人が出会ったのは、デビュー前。青川さんと文孝さんと宗崎さんはとても仲が良かったそうです。一緒に演技レッスンを受け、一緒に舞台や映画を観たり、夢を語り合い、まさに青春だったそうです。でも、青川さんと宗崎さんは、役者として有名になっていったのに、文孝さんはなかなか売れず、オーディションにも受からず、俳優をやめました。文孝さんは、忙しくなったお二人から離れていきました。その間、連絡もとっていなかったと聞いています」
遠くにはまだ文孝が見える。
文孝は、私と裕輔と仲が良かった。
一緒に演技のレッスンを受けた。
はっきりとしたことは、何一つ思い出せない。
私と裕輔の二人だけだと思っていた記憶の中に、文孝の姿も思い浮かべてみる。
マネージャーはさっきよりも、落ち着きを取り戻しているようだった。
「でも、俳優を諦めたはずの文孝さんは、青川さんに会いたくて、青川さんとお芝居がしたくて、オーディションをまた受け始めていました。そして手にしたのが、青川さんの元恋人役です。5年前。あの、キスシーンで・・・」
何かを言い淀んでいる。
すると、遠くにいた文孝が少しずつ近づいてきた。
私にしか見えない文孝が。
優しい笑顔で。
でも、今見えている文孝の本当の姿と過去を、私は思い出せずにいる。
「優子!」
文孝を見つめていた私の視線を遮って、祐輔がやって来た。
「優子、大丈夫か?びっくりしただろう。思い出したのか?」
私は首を横に振る。
「よく分からないの。私が思っていた文孝との出来事は、全部芝居だった」
「今から俺の言うことちゃんと聞いて。いい?」
マネージャーは祐輔が来ると、少しだけ安堵した表情をし、私達に一礼してからその場を去った。
「優子、聞いてほしい話がある」
あまりにも裕輔が真剣に私を見るから、
「分かった」
と幼い子供になったように返事をし、何度も頷いた。
近づいて来ていたはずの文孝の方を見ても、その姿はどこにもない。
裕輔が私の隣に座り、私の視線の先を見る。
「大丈夫?」
大丈夫ではないと彼も気付いているだろうし、私が一番分かっていた。
でも私は、大丈夫ではない理由を自分では分からない。
だから、裕輔を頼るしかない。
「知ってること、教えてほしい」
裕輔の方を見ると、裕輔も私を見た。
やっぱり裕輔は、これまで出会った人の中で一番優しいかもしれない。
その瞳を見れば、分かる。
でも、これまで確信していたことを本当に確信して良いのか不安になる。
私の何が正しいのか、それさえ、ぐらついていた。
「どこまで聞いた?」
「私達と文孝が、一緒に芝居のレッスンを受けていたこと。文孝と5年前にキスシーンで再会したこと。でも私、そのキスシーンは最近の出来事で、文孝ではない別の人だと勘違いしてて。文孝が死んで初めて異性に興味を持ったの。なのに、それが文孝との記憶だったなんて・・・それに、文孝とはテレビ局で出会ったと思っていた。それも芝居上の出来事だったなんて。もう、よく分からない」
「優子とのキスシーン。文孝が流した涙の意味は聞いた?」
「聞いてない。役者を諦めていた文孝が私に会うために、その役のオーディションを受けたことまでは聞いた」
裕輔は真剣な顔で私を見ている。
「文孝の涙。優子が自分のことを覚えていなかったから。そして、自分のことを思い出してほしいからだった。過去の優子の記憶ごと愛する文孝と、過去の文孝との記憶がない優子のキスシーンだった」
「どうして私・・・」
「文孝とのキスシーンの時から、もしくはそれより前から、優子は少し変わってしまっていた。そう言うべきかな。文孝と最初の共演をしたその映画は、制作会社の問題で、結局お蔵入りしちゃったけど、その映画には俺も出演してた。だから、それも入れたら俺と優子の共演作は5作だ。そして、その作品は、俺と優子と文孝の最初で最後の共演作。世には出なかったけどさ。キスシーンの日、優子、文孝に初めて会うみたいに接するし、最初は文孝を驚かすためにふざけてるのかと思ったよ。もしくは、昔仲の良かった人とキスするのが恥ずかしいから誤魔化すためにそうしてるのかと。でも、違った」
「どういうこと?」
「その時の優子は本当に、文孝を覚えていなかったんだ。俺は長い冗談だと思って、ただ笑ってた。文孝は、その異変にすぐに気付いた。いつから優子はこうなんだ?って。俺は何言ってんだって返したんだけど、文孝は真面目な顔のまま俺を見つめ返した。俺は真剣に考えた。そして、その頃の優子を振り返ると、色々と納得のいくところがあった。忘れていることが多かったんだ。法則なんてない。ただ、優子は芝居をすればするほど、少しずつ違う自分を手にしていく。現実と芝居が混ざり合う。混ざり合えば、消える記憶もある。段々、辻褄が合わないことも増えていって、俺らが辻褄を合わせた。周りがどうにか、少しずつズレたり元に戻ったりする優子を守ってきた」
「文孝が最初に、私の異変に気付いてくれたの?」
「ああ。キスシーンの後、優子を放っておけなくて、すぐにまた会いに来たんだよ。結局、優子の恋人になった」
「え?」
「優子は、過去の文孝を覚えていなかったけれど、文孝に恋をした。文孝は、過去の優子もその時の優子もひっくるめて愛した」
裕輔は、私が話を理解できているのか確認するように、目配せした。
私は黙って頷いた。
「優子、鏡見ながら泣くだろ?」
「う、うん」
裕輔もそれを知っていたのだ。
「優子と付き合い始めた時、裕輔から聞いたんだ。偶然、鏡の前で泣く優子を見てしまったって。何で、そんなことするんだ?」
「そうすると安心するの。まだ女優でいられると思って。だから私・・・」
「優子は、現実も芝居の延長だと思い込んでいた。何て言えばいいかな・・・演じた芝居が消えず、全て残り続けるって感じかな。鏡の前で泣いたら芝居だと思い込んで、また鏡の前で泣けば新たな芝居が生まれ、芝居が重なり続ける。色んな要素がごちゃ混ぜになっていた。結局あいつ、優子の芝居に付き合おうって言ったんだ。優子は覚えてないかもしれないけど、病院にも相談しながら。仕事は、周りの人が気付かないくらいだったんだから、隠せるって。それに、優子は物凄い努力してるから、本物の役者だからって。その通りだった。芝居に関しては、記憶が影響することが一度もなかった。台詞覚えも完璧だ。完璧過ぎた。優子の芝居は、どんな芝居も、震えるほど良かった。限度を感じさせなかった。それが、負担になってしまったのかもしれないけど・・・」
現実を認めたくなかった。
私がこれまで思っていたことが現実であってほしかった。
裕輔は物凄く悔しそうな顔をしている。
涙を必死に堪えようとしている。
「私、文孝と付き合っていた頃の記憶が一つもないの。文孝が役者を目指していて、段々と私にキツく当たるようになって、私はそんな彼に別れを切り出せなくて・・・それが芝居の中だったなら、何一つ・・・違うよね?芝居を現実だと思うなんておかしいじゃん。私は文孝を愛さなくなっていた。そうだよね?」
「違う。優子、それは芝居の中の文孝だよ。キスシーンから一年後。実際に付き合ってる二人が恋人役。優子が有名女優役で、文孝は役者を目指し、テレビ局で働いている設定だ。優子は、その芝居を文孝との出会いと思い込んでいた。本当の文孝は、無名俳優じゃない。少しずつだけど、色々ドラマにも出始めたし、舞台にも出たんだよ。文孝が優子の素晴らしい芝居を見て、有名になっていくのを悔しいと思ったお陰だ。優子に会いたくて、俳優になる夢を諦めなかったお陰だ。何より、文孝は優子の芝居が好きだった」
「ごめん、まだ自分でもよく分からない」
「文孝は言ってた。役者を夢見るだけでも幸せだったけど、実際に役者として生きられて、最高だって。もちろん大変だし、嫌なこともあるけど、優子の芝居を見ればそんなのどうでも良くなるって」
「思い出せないよ・・・」
「ゆっくり、取り戻していこう。本当の優子を。どうしてこんな風になってしまったのかは分からない。でも、優子の芝居はいつだって、本当に素晴らしかったよ。だから鏡の前で一人で泣くのを繰り返してるって、文孝から聞いた時は本当に驚いた。俺も、芝居って一体何なんだって考えて、結局分からなくて」
「ごめんね」
「謝るな。頼むから」
「うん」
少しの間、沈黙が二人を包んだ。
車の音や、色々な騒音が聞こえていたはずなのに、それは私にとって沈黙でしかなかった。
これまでについて考えるのに必要な、私達の為の沈黙。
永遠に続くはずのない沈黙を破ったのは私だった。
「私が付き合っていた人、文孝という名前は間違ってない?」
「うん。優子が愛した人の名前は文孝だよ。大丈夫。名前だけは忘れられなかったんだな。きっと、何度も何度も呼んだ名前だから」
私は文孝を既に愛し終えていた。
芝居の中だとそうだった。
でも、もしかすると、現実での私は、まだ文孝を愛していたのかもしれない。
どうなのだろう。
聞くのが怖いことを、裕輔に聞く。
「文孝は、死んだ。それは変わらない事実なの?」
少し期待した。
文孝が死んでいないことを。
死んだと思っているのも、私の記憶違いかもしれないと。
私は、どの文孝が、いつの文孝が死んでいないことを願っているのか、自分でも分からない。
何が真実なのか、現実をまだ受け止め切れない。
「ああ。文孝はもう、いない」
私が家以外で見ていた文孝も、あの夜、家にやって来たのもやっぱり、死んだ文孝だった。
リアルなのに、冷たい文孝。
私にだけ、見えてしまう文孝。
私は文孝を愛し終えていたから、幽霊の文孝を見ても、そこまで大きく傷付かずに済んでいた。
なのに今は、胸が痛い。
愛していた感覚だけが甦る。
幽霊として現れた文孝が、悲しくて仕方がない。
「文孝が死んで、優子に新たな記憶が作られたんだ。芝居が重ねられた。また、鏡の前で一人で泣いたんだろうね。文孝が死んで、お通夜の時には、文孝を愛してなかったことになってたよ。そうすれば、優子の悲しみも少なく済むから。文孝が死んだって知らせを聞いた後、優子を一人にしてなかったら。あの時、少しでも一人にしたのが悪かった。俺が優子のところに行けていたら・・・」
そのタイミングで、喉の渇きを覚え、マネージャーが置いてくれた水を飲んだ。
私の中に芝居が重なり続けていると考えたら、心臓の奥が重く感じられた。
身体も重く感じた。
座っているのに、重い。
流し込んだ水は、私の中に重なった芝居の隙間を通っていく。
「きっと優子は、文孝の死を受け入れられずに、もう一度出会おうとしたんじゃないかな。あのキスシーンを永遠にしたくて、新たな出会いとして設定づけた」
それを聞いて私は、祐輔に聞かせる風でもなく、独り言みたいに呟いた。
「新たに出会いたかった・・・あの涙がようやく出会えた真実の涙だと思いたかった。未来に希望が欲しかった。それなのに、女優であることが私を私以外の者にしてた」
裕輔が空を仰ぐ。
芝居が上手い俳優なのに、涙を隠すのは下手だ。
ありのままの裕輔が隣にいる。
芝居ではない、そのままの裕輔が。
少しして、裕輔はふたたび話し始めた。
「2年前、主演作の撮影が中盤に差し掛かった時に、文孝は交通事故で死んだ。優子は、文孝への気持ちが冷めていた芝居を始めた。芝居というより、優子自身は、それを真実として生きていた。文孝と恋人を演じた時の、有名女優役が、優子の中の重なった芝居の先頭にきた。実際に女優だから入り込みやすかったんだろうなって、俺は勝手に思った。そして、優子は言った。文孝は私にキツく当たってきた。もう文孝のことは愛していなかったって」
裕輔も困惑しているはずだ。
実際、彼の困惑や混乱が私にも伝わってきた。
それなのに、これまでのことを分かりやすいように、ゆっくりと穏やかに説明してくれる。
優しい人。
目の前に優しい人がいるという事実だけは、間違いないと思う。
「裕輔、ごめんね。ありがとう、教えてくれて。本当にいつもありがとう。優しくし接してくれて、明るく接してくれて」
「俺は文孝に影響されてるんだ。文孝の優しさに。優子が文孝との日々を思い出せたら、分かると思う。キツいこと言ったり、優子に当たったりする文孝なんて存在しないってことが。優子、いつも俺に言ってた。文孝に出会えて良かったって」
そう言ってから裕輔は、気まずそうな顔をした。
そして、抑えることが不可能だったかのようなため息をつく。
私はそのため息を、これまで裕輔を苦しめた罰として受け止めた。
「裕輔。本当にごめんね」
「優子、俺は大丈夫だから。喜んでいいのか、正直分からないけどさ。優子、俺のことはほとんど何も忘れてないんだよ。どんな優子でも、俺との記憶だけは定位置から動くことはなかった。文孝と重みが違っただけかもしれないけど」
本当の自分が分からなくなってしまった私には、本当に分かっていることなんてないのかもしれない。
だから、裕輔に向けて、言葉にしてあげられなかったことがある。
裕輔。
優しい人がいなかったら、本当に辛いと思う。
だから裕輔の存在だけは、本当の私を現実に繋ぎ止める為の唯一の希望だった気がする、と。
私は、裕輔に話してみたくなった。
幽霊になって現れた文孝のこと、死んだはずの文孝に触れた夜のことを。
さらに困惑させてしまうかもしれないと、申し訳なく思いながら、裕輔は信じてくれるとどこかで確信していた。
「私、休みの間に文孝に会ったの。というか、文孝の葬式の後からよく私の前に現れて。信じられないとは思うけど、本当なの。幽霊の文孝が・・・いや、ダメだね。裕輔が優しいからって私また、受け止めてもらおうとしてる」
裕輔は私を抱きしめた。
その瞬間に、そして裕輔の言葉に、懐かしさが込み上げる。
裕輔は言った。
「受け止めるよ。大丈夫、これは愛とかじゃなくて、大切な人を思うハグだから」
そうだ。
思い出した。
デビュー前の私達はよく、お互いを抱きしめた。
恋人にする風ではなく、仲間を励ますような、それでいて温かいそんなハグだった。
文孝も裕輔も、落ち込む私を抱きしめてくれた。
私も二人を抱きしめた。
決まりは必ず、
「これは愛とかじゃない」
と最初に伝えることだった。
役者になる為、お互いを支え合った大切な言葉。
オーディションに落ち続けたり、芝居についてこっ酷く叱られた時には抱きしめてお互いを励ました。
ラブストーリーを演じる時、実際には好きでもない相手を抱きしめなければいけないから、ドキドキしない免疫をつける為とも言っていた。
一つ、思い出した。
「優子。優子に会いに来た文孝は何て言ってた?」
裕輔の速い鼓動が聞こえた気がする。
微かに震える身体。
それは、間違いなく、祐輔の震えだった。
裕輔はそれを気付かれたのが恥ずかしかったのか、私から離れる。
そして、私の返事を待つ。
「本当に何気ない会話が多かった。天気良いねとか、そんな感じの。本当に何気ないものだった気がする。あとは、文孝からの質問がとにかく多くて、うんざりしながら答えてた。最後の方は、無視もしちゃってたな」
「どっちかと言えば、優子の方がお喋りだったのに。構ってもらえなさすぎて、文孝がお喋りになっちゃってたか」
裕輔は笑い、私が思い出せない、私と文孝のエピソードを詳細に思い出しているようだった。
「でもね、この間文孝が初めて家に現れたの。そしてその夜、泣いてくれって言われた」
裕輔から笑顔が消えた。
「俺の前で泣いてくれないかって。それから、もし今、泣いてくれるなら、もう二度と鏡の前で一人で泣くなって言われた」
裕輔はそれを聞くと、ついに泣き始めてしまった。
嗚咽するほど泣いた。
さっきまで必死に隠そうとしていた震えを、もう隠しきれず、身体に反映させてしまったみたいな震え。
それでも裕輔は、声も震わせながら言った。
「それは間違いないよ。文孝だな。文孝が会いに来たんだ」
裕輔が私の話を信じてくれただけで嬉しかった。
私に見える文孝の存在を認めてくれて、安心した。
「他には?何か言われた?」
と、裕輔は催促するように聞いてくる。
急かされているはずなのに、私は答えられずにいた。
目の前に信じてくれる人がいることに、何とも言えない気持ちになる。
自分を見失うような私なのに。
ごちゃ混ぜになる私なのに。
愛した人の記憶をすり替える私なのに。
「文孝は、何を伝えてきた?」
答えない私に、裕輔は再度質問した。
少しだけ躊躇しながら、少しずつ悲しみが大きくなっていることに気付きながら、私は言った。
「愛してたかって聞かれた。それなのに私、文孝を勘違いしてたから。愛してたけど、冷めていったって答えちゃった。愛してるって言ってあげるべきだったのに」
芝居ではない文孝との記憶がはっきりと戻った訳ではない。
ただ、ぼんやりしながらも、文孝が死んだという現実や、文孝と生きていた感覚が戻ってきた。
それが、悲しくてどうしようもない。
感覚としてしか分からないことが、とにかく悲しい。
「大丈夫、文孝は分かってくれてるよ」
私は辺りを見回した。
やっぱり文孝はいない。
「さっきまで近くにいたの。穏やかな笑顔だった。あの夜を境に、前よりも明るい表情になったの」
裕輔は私をなだめるでもなく、軽蔑するでもなく、ただ優しく見つめた。
「なあ優子。最後に、泣いたらどうだ」
「え?」
「馬鹿なこと言ってるのは分かってる。これからも、俺が、文孝の代わりにはなれなくても、そばで見守るから。だから、自分の安心の為じゃなく、文孝を想って泣いてみたら?芝居なんかじゃない、本当の自分で」
裕輔は涙を隠そうともせずに、ただ私の目を見続ける。
訴えていた。
その目は、私を取り戻そうと必死だった。
本当の私を探すその目から、優しさ以外感じられなかった。
「うん、そうする。そうすればきっと、私が記憶から消してしまった文孝に会える気がする」
裕輔は何度も頷いた。
取り戻したいことが、多過ぎる。
雑誌のインタビューは結局、途中までで終了ということになった。
裕輔は車で、私を家まで送ってくれた。
到着し、不安そうにする裕輔を、私は抱きしめる。
自然にそうした。
そうするべきだとも、思った。
「これは愛とかじゃなくて、裕輔を安心させる為のハグだから。私は、大丈夫になる。頑張る。きっと元に戻れるし、女優も辞めたくない。言葉ほど簡単じゃないことも分かってる」
「うん。また共演しような」
「ありがとう、本当に。私を守ってくれて。あとね、助けてもらってばかりで申し訳ないんだけど、これからも、これまでのこと沢山教えて欲しい。思い出せるように協力してほしい」
もう、共演できないかもしれない。
だから、普段みたいな返事を返すことはできなかった。
「もちろん。教えるよ。俺だって、過去の話がしたいんだ。文孝との思い出も独り占めする訳にはいかないよ」
そろそろ行くべきだと思っても、裕輔と離れ、真実を知った上で文孝に会うのはやっぱり緊張した。
会えるという確証もない。
だから最後に一つだけ、時間稼ぎをしながら、一番不安に思っていることを聞く。
「文孝との過去を思い出せなくても、愛していいのかな?愛してるって伝えてもいいかな?」
私は今、感覚としてしか文孝を思い出せていない。
これから愛し始める時と変わらないほど、彼との記憶が少なすぎる。
それなのに、私は彼を愛してる。
あのキスに、あの涙を愛してる。
そう、あのキスシーンと涙だけは忘れていない。
「言っていいと思うよ。もしこれが芝居なら、躊躇わずに台詞を言わなくちゃならない。気持ちが入らなくても言わなくちゃいけない。そうしないと、進まないから。でもこれは現実だ。自分の意思で言っていいのか迷ったりできるなら、大丈夫。言わないっていう選択肢や、言葉を自由に変える選択肢もあるんだ。優子が、文孝を愛してる理由を説明できなくても、自ら選んで、愛してるって言いたいならそう言えばいい」
私は、文孝があの夜に言っていたことを思い出した。
涙も恋も理屈じゃないと。
「理屈じゃないってこと?」
「理屈?ああ。そうだな。そういうことかな」
あのキスも、あの涙も理屈じゃない。
「じゃあ、行ってくるね」
「うん。また」
裕輔は私が家に入るのを見届けてから、帰った。
私も窓から、裕輔の車が見えなくなるまで見届けた。
静かな私の家。
夜になるのを待った。
暗くなり、あの日と同じ条件を揃える。
そして、家に来てほしいと願った。
ベッドに入り、文孝のことを想う。
「話したいことがあるの」
小さくそう呟いてみた。
「文孝、嘘ついたんだね。私が本当の文孝を思い出して苦しまないように、私の芝居に付き合ったの?」
返事はなかった。
そのまま眠らずに、深夜3時を迎えたところでようやく声がした。
「優子、来たよ」
その声を聞いて、すぐにでも文孝を抱きしめたくなった。
彼の方を見ると文孝は、ベッドの横で体育座りをしている。
今の文孝は、私が彼とのこれまでについて思い出したことを知っているのだろうか。
「文孝、私の手握ってくれない?」
私は右利きだ。
私が有名女優役で、彼が無名俳優の芝居の時だけ左利きだった。
月の私と、月を遠くから眺める彼の芝居は終わった。
私達が芝居ではなく、本当の恋人として隣にいる時、彼は私のどっちの手を多く握ったのだろう。
文孝は何も言わずに近づくと、私の右手を握った。
青川優子という名の、右利きの私の手を。
前よりも強い力だった。
私は芝居なんかせずに、彼の冷たい手だけを感じる。
「芝居に付き合ってくれてたのは、文孝の方だったんだね。演じたまま、私に嫌われたまま、いなくなろうとしたの?」
「うん。でも、消えることはできなかった」
彼もあの日の夜みたいな芝居をやめ、本来の私だけを感じようとしている。
私は横になったまま、文孝の方を見た。
「文孝?」
彼は泣いていた。
あまりにも切ない涙で、私もつられて泣きそうになる。
「文孝。文孝・・・」
彼の名前を呼ぶのが精一杯だった。
私は、いつから自分を見失ってしまったのだろう。
愛する人の記憶さえ、すり替えてしまった。
「優子」
少しずつ、文孝の手に温もりが戻ってきた。
「文孝」
私は自分の涙を制御できずに、勢いよく流れていく涙を不思議に思った。
文孝はベッドにさらに近付き、私の涙を見つめ優しく微笑んでいる。
「やっと見れた。優子の本当の涙」
「これは、愛以外の何でもない。文孝を愛してるから流れる涙だよ」
どうしてか力が入らなかった体をようやく起こし、文孝を抱きしめた。
「じゃあ、このハグは?」
耳元で聞こえるその声は、間違いなく、空気を振動させ、私の耳に届いている声だ。
文孝も私を抱きしめる。
文孝は、温かかった。
「このハグは、文孝に愛を伝えたいハグ。ずっとこうしていたいと願うハグ。沢山の時間を取り戻したいよ」
抱きしめ合っている彼の表情は見えない。
どんな顔をしているのか、想像する。
すると文孝は、涙声で言った。
「もう、一人で泣かないで。泣いて安心しないで。どうしても辛かったら、僕を思い出してもいいから」
「文孝・・・」
「僕は、青川優子のファンでもあった。優子という一人の人間に再会したい思いももちろんあったけど、俳優として、青川優子という女優に会って共演したい気持ちもあったんだ」
「うん」
「だから、優子が辛くないなら。まだ続けたい気持ちがあるなら、女優を続けるべきだとも思う。でも、自分を失うほどなら、辞めるべきだとも思うんだ」
「うん」
彼の声が小さくなってきているのには気付いていた。
私を抱きしめ返す感覚も、なくなってきている。
「文孝。会いにきてくれて本当にありがとう。私、あのキスシーンの時、文孝を思い出せなくてごめんね。でもね、文孝を思い出せなかったけどあの時、文孝を忘れられなかった。泣いた文孝を追いかけて抱きしめたのは、私の記憶違いじゃないよね?」
涙が止まらない。
私が思い出せる文孝との本当の記憶は数少ないのに、本音と呼ぶべき心の奥深くにある気持ちが、涙を抑えさせてはくれない。
「ああ。優子は確かに僕を抱きしめたよ。本当に嬉しかった。ねえ、優子。ようやく僕の為に泣いてくれたね」
「うん。その人が泣くだけで自分も泣けてくるようなそんな涙だよ。文孝が望んでいた涙」
私は目の前にいる人の恋人だった。
文孝の最後の恋人だった。
「優子、ごめんね。僕は本当はまだ、優子がいつか他の誰かと幸せになってほしいとは思えない。あの夜、優子のこれからの幸せを願ったつもりだった。でも、ダメだ。そんなのは辛すぎる」
その言葉は私にとっても、言った彼にとってもまさに辛いものだった。
「優子。僕があのキスシーンのあと、伝えたいことがあった気がするって言ったの覚えてる?」
「うん。覚えてるよ」
「いつか絶対に伝えようと思ってた言葉。一度も伝えたことない言葉」
「何?」
文孝は私を見つめ、優しく微笑みながら言った。
「優子、愛してる」
その言葉に私は、震えるほどの想いを知った。
愛してる感覚が、現実となった。
新たな記憶を作った。
「私も愛してる」
涙は止まらない。
心が苦しくてたまらなかった。
文孝は私の涙をそっと拭い、もう一度優しく微笑んだ。
「愛してる」
最後に小さな涙声でそう言うと、文孝は消えた。
永遠に、私の前から姿を消した。
温もりも、目に見えるものも消えた。
本当のお別れに、私は長い間泣き続けた。
時間は止まらずに、夜は明け、朝がやって来る。
私はその間、今覚えている文孝の全てを思い返した。
芝居ではない、右利きの私の手を握る文孝を。
現実と芝居の区別を、懸命に行いながら。
私は鏡の前に立つ。
もう、自分の安心の為に泣いたりしない。
芝居が重なり続けてしまったこの身体の中から、本当の私だけを見つけたい。
文孝と過ごした日々を思い出したい。
今、私にできることはそれしかない。
今は、それだけ。
女優を続けられるかはまだ、分からない。
文孝。
愛してくれてありがとう。
涙を流してくれてありがとう。
涙を見つめてくれてありがとう。
私はこれから、文孝とのこれまでを知っていく。
祐輔が知る限りの、文孝と私の物語。
そして、私が心の奥にしまい込んでしまった、文孝と私の時間。
文孝の優しさや、文孝の言葉、恋人としての文孝、役者としての文孝。
そこから私は、文孝と私だけが知る物語を思い出すことができるだろうか。
もう誰とも答え合わせのできないその記憶を、間違いないものだと、胸を張って言える日が来るのだろうか。
だけど今は。
今はこの言葉だけを、真実として想うことができる。
文孝、愛してる。
あのキスも愛してる。
そして、文孝。
本当の涙を、愛しています。
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