安納寺の親子

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 レジでさっさと自分の分の支払いをする私を真人が「待ってくれ」と止めようとしたけど、私が「勘違いだったと田野倉さまにもよく言っておいてください」と目に力を入れて頼むと、真人の両腕がだらりと垂れ下がった。  そのまま【アショーカ】を出て、駅へと小走りに向かう。  誰も尾行なんてしていないのに、自宅とは反対の方角へ行くバスに飛び乗った。  私は相良黄菜子だ。雪奈じゃない。ただの黄菜子だ。真人に愛された雪奈じゃない。  溢れそうな涙が零れないように目を瞬いて、窓の外に流れる景色に意識を集中させようとしたけどダメだった。  どうしてまだこんなに好きなんだろう。  好きなのに、どうして嘘をつかなきゃいけないんだろう。  どうして真人は放っといてくれないんだろう。  ノエルちゃんと結婚するのに……。  答えは全部私の中にあるのに、堂々巡りのように「どうして」ばかりが胸を締め付ける。  このままどこか知らないところに行ってしまいたい。  ううん。そうじゃない。  真人と出会ったあの日に戻ってやり直したい。  雪奈じゃなく黄菜子として出会って恋に落ちて結ばれたかった。  「ウーパールーパーみたいだ」って笑われてもいい。  ずっとずっと真人のそばで生きていたかった。 「あら、降ってきた」  後ろの席のおばあさんの呟きが聞こえて涙を拭うと、窓ガラスに水滴がポツポツと増えていくのが見えた。  もう帰ろう。雨が酷くなる前に。  降車ブザーを押して、次のバス停でバスを降りた。  ワンブロック戻って横断歩道を渡って、反対方向の花房駅行きのバスに乗るためにバス停まで歩くと、そこは見覚えのあるコンビニの前だった。  ここ、来たことがある。事故現場だっけ?  全然思い出せなくて「やだな。歳かな」と呟いたとき、後ろから「黄菜子さん」と声を掛けられた。  左手でビニール傘を差し、右手にコンビニのレジ袋をぶら下げていたのは臼井ちゃんで、彼女は高校名の入ったジャージの上下にサンダルという格好をしていた。 「あー! ここ、臼井ちゃんちの近くか!」  やっと思い出して叫ぶと、「忘れてたんだ? もう3年以上前に来たっきりですもんね」と呆れたように肩を竦めた臼井ちゃんが傘の中に入れてくれた。 「ありがとう。ずいぶん変わったよね。あんなマンションあった?」  言い訳のように外壁が真っ青なマンションを指差した私に、「ありましたよ」と臼井ちゃんは素っ気なく返した。  修司との別れが事務所のみんなに知られるまでは、臼井ちゃんの家で2人で飲んだり泊まったこともあったのに、どうして思い出せなかったんだろう。  臼井ちゃんが「何しに来たんですか?」と訊いてきたから、彼女に何もかも打ち明けたい衝動に駆られた。
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