新しい目標

2/10
前へ
/31ページ
次へ
無事に娘が高校へと入学したタイミングで、私は常勤からパートタイムへと勤務を変更することにした。 周りに迷惑をかけている自覚はあったし、何よりもパートの方が時間の都合が付きやすかったからだ。 入学式直前、私たちはとあるリハビリ病院まで足を運んでいた。 N尾さんの紹介で、車椅子陸上へ入れることになりその手続きをしにやって来たのだ。 「初めましてY本です。よろしく」 そう言って、爽やかな笑顔を浮かべながらスラリとした細身の車椅子に乗った男性が私たちを迎え入れてくれる。 案内された先に少し広めの多目的ホールがあり、そこには50代位のちょっと渋めの男性が待っていた。 ホールの真ん中には初めて見る陸上用車椅子。通称レーサーが置いてある。 「Mちゃんは今いくつ?」 「15歳です」 「そうか、若いね。 怪我をしたのは去年?  何番目を怪我したの? 腹筋は効くの?」 あまり聞き馴染みのない質問だなと思った。 腹筋が効くか、効かないかがこのスポーツでは凄く大事になる。と言うのが理解できたのはもっとずっと後になってからだ。 「じゃぁ、一度床の物を拾うような形で身体を倒してみようか」 言われるまま、前傾姿勢になる娘。車椅子の横にある手すりを握っていないと前に転げ落ちてしまう。 「じゃぁ、そのまま手を使わずに起き上がって見て」 「はい……」 娘は何とか両手を広げはしたものの、僅かに身体が上下に動いただけだった。 「これ以上は出来ません」 「うん、もういいよ。ありがとう。いいね、Mちゃん……。君は凄くいい」 一体何がいいのかさっぱりわからない。さっきの行為に何の意味があったのか。 Y本さんは隣に居た男性と何やら、相談している。言葉の端々に、53だとか54だとか数字が出て来るのは何なのだろう? 不思議に思っていると、Y本さんは娘に向かって言った。 「Mちゃん、君は腕の筋肉の付き方が凄くいいから、頑張ればパラ出場も夢じゃないかもしれない。丁度今、53の女子選手が少ないから、貴重な存在だよ。面白いね、いいじゃないか」 「あの、53って何でしょうか?」 素朴な疑問を娘が口にする。  「53と言うのは、クラスの事だよ。障害者と言っても、みんなが全く同じ状態と言う訳では無いだろう? 腹筋が効く人と、全く効かない人が一緒に勝負してもそれは全くフェアじゃない。だから、パラスポーツは細かくクラスが分かれるんだ。君は、腹筋がほとんど無いからT54か、T53のどちらかになると思うんだよ」 初めて聞く言葉ばかりで、目を白黒させるばかりだったが、勝負をするときに条件が同じじゃないと平等ではない。と言う事だけは理解出来た。 「ただ、そのわずかに残っている腹筋をどう判断されるかだよねぇ。僕は53だと思うんだけど……それはもう、やってみないとわからないから。 取り敢えず、次の土曜日〇〇橋の駐車場に来て」 「わかりました」 「これから、頑張ってね」 にこやかな笑顔に見送られ、病院を後にする。 後で知った事だが、このY本さん。 実はマラソンの元世界記録保持者で、現在の車椅子陸上の先駆者とも呼ばれる超レジェンドだった。現在は、日本パラ陸上競技連盟の監事を務めている物凄い人である。 屋外でも練習が出来るルームランナーを考案したり、現役を退いてからは若手のコーチやアドバイス、日本全国への講演活動などスポーツを通じた社会福祉の啓発を行っている人物だ。 そんなすごい人が同じ県内に居たという事を、この時初めて知った。
/31ページ

最初のコメントを投稿しよう!

18人が本棚に入れています
本棚に追加