少しずつ

1/3
前へ
/31ページ
次へ

少しずつ

事故から1週間。私は、職場に事情を話して特別休暇を貰えることになった。  自分の心身の回復も勿論だが、そんな状態になってしまった娘の側に少しでも長くいてあげなさいと快く送り出してくれた上司には本当に感謝している。 娘は日に日に回復し、酸素マスクも外れて、体中についていた管も少しずつ外れていった。 この時の一週間は本当に目まぐるしく、あっという間に過ぎていったように思う。 長女は日に日に出来ることが増え、笑顔もチラホラと見せてくれるようになり、短時間だが介助で車椅子にも乗れるようになっていた。 だけど、私が面会に行くたびに「足の痺れた感覚が治らないんだよね。動かそうと思っても動かないんだけど、動くようになるのかなぁ?」と言う言葉を耳にする。 そのたびに曖昧な返事しか出来ない自分に対して歯がゆさを感じていた。 娘は車椅子に乗れるようになって、少し自信が付いたのだろう。 自分が出場する予定だった中体連が後一週間と差し迫ったある日、長女がポツリと、当日は応援に行きたいと言い出した。 そりゃそうだろう。中体連に出場できるのはこれが最後だし、3年間一緒に吐くまで頑張ってきた仲間たちが居る。 行きたいと思うのは当然だ。でも、果たして本当に行けるんだろうか?  初めて車椅子に乗った時は5分も経たないうちに低血圧になり座っていることが出来なかった。 毎日少しずつ車椅子に慣れる練習をしているとはいっても、その時間は30分足らず。果たして何時間も起きていられるのだろうか? それに、先生の話では長女は胸から下の感覚が麻痺している為に、体温調節も上手くいかないのだと言う。 身体の半分以上は熱を発散させる機能がないので簡単に熱が上がってしまう。 もうすぐ5月と言っても、最近は25度以上の夏日になる日もチラホラ出てきている。 本当に大丈夫だろうか? 主治医の先生にも相談してみたが、「ダメとは言わないけど、リスクが高い」とあまりいい顔をされなかった。 でも、本当は自分が出るはずだった最後の大会だ。この日の為にずっと、毎日吐くほど練習して来てたんだもの。3年間地獄のメニューをこなし、毎日ひたすら頑張って来てたのも知ってるし、競技の成績が少しずつ上がって来てたのもわかってる。 出れなくてもせめて、今の仲間たちの勇姿をなんとか娘に見せてあげたい。 楽しみにしていたものが全部出来なくなるのはあまりにも不憫で、なんとかしてあげたい一心だった。 主治医の先生と何度も話し合いを重ね、大会の2日前にようやく外出の許可が下りた。 私が看護師であること、何かあったらすぐに対応できるように解熱剤と保冷剤を大量に持っていく事、外出できる時間は3時間との条件付きだったが、それでも娘はとても喜んでいた。
/31ページ

最初のコメントを投稿しよう!

18人が本棚に入れています
本棚に追加