第12話

1/1

55人が本棚に入れています
本棚に追加
/22ページ

第12話

 夜景が見える高級レストランに連れて行かれた。  草子の前には、曇り一つないシャンパングラスが置かれている。  つま先まで意識されたポーズで、ウェイターが草子のグラスにシャンパンを注ぐ。 「君との出会いに乾杯」  松野は恥ずかしげもなく、恥ずかしい言葉を堂々と口にした。 「家を出てきたんだね。僕の為に」 「僕たちは出会う運命だったんだよ」 「君の過去は聞きたくない。大事なのはこれからだよ」  次々と松野の口から零れ出る卑しさしか感じない言葉の羅列に、草子はこの場から消えてしまいたくなった。  こんな所でこんな卑しい言葉を聞く為に、草子は自由になったのではないと思う。あの男を探す為に自由になったのだ。  男の命はこうやっている間にも、砂時計の砂が落ちるように減っていっているのだ。 「あの、色々していただいて、ありがとうございます」 「どういたしまして」 「私、そろそろ行かないと」 「どこへ?」 「人を探さないと」 「それ、男?」  松野の質問は、あたしの大事なものを汚していくように感じる。草子は、この場から早く立ち去りたいという気持ちを抑えつつ、 「そうです」  草子が正直に答えると、松野は再び狂犬のような目になった。  今度は草子は気づいた。松野の目を見て、草子は恐怖を感じた。  そんな草子の表情に気づいたのか、松野はすぐに微笑みを顔に貼り付け、 「へー。男を探してるんだ。もしかして、その為に家を出てきたの」 「そうです」 「ふーん」  松野は面白い玩具を壊されたような顔をして、草子を見つめた。  しばらく、沈黙が続いた後、 「僕が探してあげるよ」  と、松野が声を震わせながら呟いた。  この声は、嫉妬だ。  草子は先ほどの女店員の声を思い出した。  何故、この男は出会って少しの私に対して嫉妬などするのだろうか。草子は再び恐怖を感じた。 「大丈夫です。一人で探せます」 「いいから。僕も探すよ」 「一人で探したいんです」  頑なに断る草子に、松野は怒りを抑えているようだった。 「口紅」 「えっ」 「口紅がとれてる。直してきなさい」  突然の松野の言葉に、困惑しながらも草子は立ち上がった。 「ここ、僕の店だから」 「えっ?」 「逃げるの無理だから」  草子が店の入り口を見ると、さっきまで誰もいなかったはずの場所に、黒ずくめの男達が立っていた。  草子は自分に危険が迫っていることに、ようやく気づいた。  草子はトイレの中を見渡すが、どこにも逃げられる要素がない。戻るしかないのか、あのイボ蛙の元へ。  草子は自分がここ数日で、随分遠くに来てしまったと感じた。お風呂場で夫の浮気に苦しみながら、白いシャツを洗っていた自分が、今は高級レストランのトイレでどうやって逃げるか考えている。  人生とはなんと面白いものなのだろうか。  こんな時なのに、草子は笑いがこみ上げてきた。  あたしはいつか誰かに殺されるのかもしれない。  草子は、鏡の中の顔を見た。口紅がとれかけている。草子はさっき松野に買ってもらった口紅を、グリグリと口に塗りつけた。  そして、 「あたしは自由だ」  と、鏡に口紅を塗りつけた。  そして、無造作に口紅をゴミ箱の中に放り込んだ。まるで、松野に仕返しをするような気分になり、草子は鏡に向かって挑戦的に微笑んでみせた。  松野の元に草子は一直線に歩いていった。  松野は勝ち誇った表情で、草子を見つめていた。  テーブルに戻るやいなや、草子は松野の前に置いてあるフォークを取り、松野の手のひらに突き刺した。  草子は痛みに呻いている松野を一瞥すると、入り口に向かって歩き出した。入り口にいる黒服の男達が、松野の元に駆け寄ってきた。  草子を追いかけようとする男達に、松野は 「いいんだ」  と制した。 「きっとあの女は戻ってくるから」  松野は草子の後ろ姿を見つめながら、嫌な表情で微笑み、手のひらから流れる血をペロリと舐めた。  (つづく)
/22ページ

最初のコメントを投稿しよう!

55人が本棚に入れています
本棚に追加