第2話

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第2話

 風呂場は蒸し暑く、全身から汗を吹き出させながら、草子はワイシャツを洗い続けた。  白いワイシャツの小さな破れ目がどんどん大きくなっていく事に、草子は気づいていないフリをして、ただひたすら洗い続けた。  洗うという行為を止めてしまったら、私は決めなければならなくなってしまう。  私は何も決めたくないのだ。  息ができない。苦しい。誰か助けて。  私はどうすればこの苦しみから逃れられるのだろう。  ボロボロになってしまったワイシャツを、草子は静かに見下ろしていた。もう洗う事すら出来なくなってしまった白いワイシャツ。  捨ててしまいたい。  何もかも捨てて自由になりたい。  草子はこの思いつきが、一番魅力的に思えてならなかった。  割れたガラスは元には戻らないのだ。丁寧に貼り付けても、元の形に近いものに戻るだけ。決して前と同じものにはならない。ならば粉々に壊してしまえばいいのではないか。  そんな勇気は自分にはない事を知りながら、草子は想像の中で自由になる。草子の口元に歪んだ笑いが広がっていく。  駄目だ。それは逃げなのだ。逃げてはいけないのだ。そのぐらいの覚悟で私は結婚したはずだ。  草子は口元にこびりついた笑いを急いで手で拭った。  草子は何度も何度も拭い続けた。気がつくと唇が切れて、今度は痛みが口元に広がった。  草子は痛みに堪えながら考え直す。  前と同じでなくてもいいのではないか。前に似た形を受け入れればいいのだ。それが夫を許すという事なのだ。  それでもいいと思えるなら、ここに留まる事が可能なのかもしれない。  草子の思考は、檻の中で同じところをグルグルと回っているハムスターの如く、同じ場所を回り続けていた。  このまま誰にも愛されず、私は死んでいくのだろうか。誰にも必要とされず、浮気をされた妻という重荷を背負いながら、生きていかなければならないのだろうか。  草子は、自分が迷子になってしまったような、恐怖にも近い気持ちに一人絶望した。  草子は現在三十九歳である。  結婚したのは二十九歳の時だから、夫とはもう十年も暮らしている。  年月が長いから相手の事がわかるというのは嘘だと草子は思う。  私は夫の事が全くわからない。  好きな食べ物や、好きなテレビ番組はわかる。そういった外側から覗けるものはわかる。だが、夫の心の中は全くわからないのだ。  時を重ねれば重ねるほど、相手の事を見失っていく。自分の努力が足りないからなのだろうか。  夫は大学を出てからずっと同じ会社に通っている。同じ時間に家を出て、同じ時間に家に帰ってくる。そう、ついこの間までは。  今は残業が増えた。残業手当のつかない残業が週に二回ある。  草子は、遂に決断した。  風呂場にワイシャツを置き去りにする事を決めた。  草子はあまりにも長く風呂場にいたせいで、汗でベタベタになった自分の身体を、手早くシャワーで洗い流した。  草子が決断する事が出来たのは、自分の意思ではなく、夫の薬を病院に取りに行かなければならなかった事を思い出したからだ。  夫は皮膚のアレルギーで、薬を飲まないと全身がミミズ腫れのように赤くなる。朝昼晩の三回、薬を飲み続けている。  夫は自分の薬なのに自分で病院に取りに行かない。そんな時間は自分にはなく、草子は暇なんだから貰ってきてくれと指示をする。頼んでいるのではなく、指示なのだ。俺が養ってやってるんだから、薬ぐらい取りに行って当たり前だと言われた事もある。  夫が浮気という緊急事態にも、やらなければならない事は発生する。  主婦は暇だとよく夫から馬鹿にされるが、こんな雑用は山程沸いてくるのだ。人の世話ばかりで一日が終わる。自分の為の時間なんて、足の爪程しかない。  食事も夫の好きな料理ばかりで、草子は自分が何を食べたいと思っているのかも、最近ではよくわからなくなってきていた。  こうやって自分は、少しずつ夫の色に染まっていってしまうのだろうか。  オセロの駒のようにどんどんひっくり返されていって、最後には負けるのだろうか。  (つづく)
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