最終話

1/1

55人が本棚に入れています
本棚に追加
/22ページ

最終話

 草子は不安になりながら待つ。  だから、背後からジローの少し足を引きずったような足音が聞こえてきた時は、胸が苦しくなるほどの喜びを感じた。 「おはよう」  ジローの声で、草子は初めて気づいたような顔をして振り向く。 「おはよう」 「楽しそうだね」 「うん。楽しいよ」  ジローは自分で入れた珈琲を手に持ち、草子の隣に座り、静かに海を眺める。  ジローの手足は、枯れ枝のように細くなり、あまり食欲もなくなっていた。  最近は、夜中になると、痛みで意味のわからない言葉を叫んだり、急に泣き出したりするようになった。  そういう時、草子はジローの背中をそっと撫ぜた。そしてジローの身体の全てを撫ぜ続けた。  髪、目、鼻、口、耳、鎖骨、肩胛骨、尾てい骨、そして、足の指の一本一本まで。  ジローはまだ生きているんだよと伝えるかのように、草子は丁寧に撫ぜ続けた。  草子に全身を撫ぜられると、ジローは安心したようにまた眠りに入っていくのだった。  草子にはジローが、少しずつ子供に戻っていっているように感じた。こうやって人は、人生の時間を巻き戻されていくのかもしれない。  そして最後は無になる。  何もないところから生まれて、何もないところに戻っていくのだ。  そう考えると、草子にとって死は怖いものではなくなる。  いつか自分も無になるのだ。  だからこそ生きている間は、無でいてはいけないのだ。  草子は、目の前に広がる海を眺めながら、 「生きてるね、私たち」  とジローに話しかけた。  返事がないので、草子はわざと隣を見ようとしなかった。  草子は長い時間、まっすぐ前を向き、海だけを見続けた。静かな時間が続いていた。  草子は、歯を食いしばり大きく息を吸い込んで、やっと隣を見た。  草子の隣で、ジローは幸せそうな微笑みを浮かべて、眠っていた。  草子は、ジローの髪を撫ぜ、優しく口づけをし、ジローの手から落ちそうになっている珈琲カップをそっと取り、海に向かって投げた。  出来るだけ遠くへ。  ジローが無になってから、一ヶ月が経った。  心配だから一緒に暮らすと百花が言い出したが、草子は優しく丁重に断った。  宣言通りジローの後釜に座ろうと近寄ってきた松野の存在も、草子は難なくはねのけた。  草子はジローの死によって、自分を取り戻したのだ。草子は強くなった。  もう誰も草子の中に勝手に入る事は出来ないのだ。  草子は、海の近くの喫茶店で働き始めた。  長年の主婦生活で培った料理の腕をマスターに買われ、毎日誰かの為に料理を作っている。  生きていた過程の中で自分がやってきた事は、どれ一つ無駄な事はないのだなと、草子は理解した。  無になるまで生きるんだ。  草子は、ベランダにある白いベンチに座り、海を眺めながら足をブラブラさせ、自分のお腹を優しく撫ぜた。  私は一人じゃない。  (おわり)
/22ページ

最初のコメントを投稿しよう!

55人が本棚に入れています
本棚に追加