クロール

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 幼い頃、クロールはサメに襲われたときに逃げるために覚えるのだと教わった。平泳ぎは遭難したときにできるだけ長く泳ぎ続けるため、背泳ぎは体力温存しながら永らえるため。 日本海側の荒れた海で、父と母から教わった。  けれど私はきっともう、サメに襲われることも海で遭難することも、この先ないまま一生を終えるのだろうと思っている。私は75歳で、内陸の地で暮らしているからだ。 ただ私は、まるで茶道をやるかのように、毎日欠かさずクロールを泳ぐ。内陸の地の温水プールで。 茶道に型が決まっていて、そこにさして意味などないように、私のクロール道にも型があり、そこに意味などなにもない。 ただ美しく、型通りに、なんの無駄もなく身体を動かすことは、己の精神を沈め、私を強くしてくれる。できるだけ身体が透き通るように、心身ともに余計なものがそぎ落とされるように、きょうも私はクロールを泳ぐ。
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