クロール

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 飛び込み台から飛び込むときは、態勢をできるだけ低くして、ほんのすこしだけ、柔らかい弧を描く線のように飛び込む。水音を大きく立てることも、騒々しい水しぶきを上げることも、クロール道に反している。 できるだけ水底深く沈み込むように、そして飛び込んだときの勢いだけで、自然に浮かびあがるまで前に進む。できるだけ、できるだけ、前に進む。水のなかでは音がほとんどない。 ひとり。ひとりきり。私は私自身と向き合う。  水中から浮かび上がってきたら、そこでやっとかき始める。腕を無駄なく動かし、水をかいたら水中へ再び、滑り込ませるように。足のキックは太ももから動かし、無駄に水を蹴り上げない。水しぶきはやはりいらない。 身体の芯が一本縦に通っているように、左右のバランスが整っているように、それが一番大事なことだ。  頭のなかは、無にはならない。むしろ日ごろの喧噪のなかでは考えられないようなことを、ただひたすらに考える。 仕事のことや未来のことを考えることもあれば、昔のことを思い出すこともある。かつての私にはひとりの夫とひとりの娘がいたが、どちらももはやこの世のひとではない。そんなことも考える。 かみ砕き、思い出にひたり、そして前に進む。クロール道は私には欠かせない。これがあるから、忙しすぎる毎日もなんとかこなしてゆけるのだ。  一キロ泳いでプールを出ると、私の秘書が待っていた。
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