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ここに来て約一年。移り変わりが激しい中で私だけが居続けた。死んだ人もいる。回復して笑顔で出ていった人もいる。私は全て見送ってきた。私が見送られるなんて想像できない。そんな日が来るのだろうか。
午後は決まって一つのテーマを自分で提示してそこへ向けて取り組む時間。幸太は折り紙をちぎった絵を描いて、優子は壊れかけた椅子の修復をしている。
集中して作業するみんなの目を盗んで、私は中庭に出た。ぽっかりと空いた空洞に佇み、私は自分の胸をそっと撫でる。肋骨の段々が手のひらで分かる。あの夜からずっと胸がざわついている。
急に物音が聞こえて振り返ると先生がいた。
「先生は私を見つけるのが上手ね。もしかしてストーカー?」
「他の子達は勝手に出歩かないから見る必要がないのさ」
微笑を浮かべた先生は私の隣へ立った。
「先生は、誰のために働いているの? 奥さん?」
「私に妻はいない。もちろん君たちのためであることは間違いないが、根本は過去の私のためだな」
先生はゆっくり歩いて向かいのベンチに腰掛けた。両脇に立つ二本の木がしなやかに揺れている。
どういうことなのだろう。私は首を傾げた。
「ここに初めて来たのはもう20年も前。当時十八歳だったわたしはこの世に未練なんてなかった」
それから先生はゆっくりと朗らかに昔話をしてくれた。先生は元々患者としてここに連れてこられたこと。脱走したこと。とても目の前で話す先生の事のようには思えなかった。
「誰もが手を焼いて見捨てかけていた時、ある医師が現れた。その人はいつも色褪せたジーパンを履いていてね、不器用で頼りなく見えたけど、わたしを一度も見捨てなかった。
初めは怖かった。そんな大人がいるとは思っていなかったから。次第に恐怖は緩和されて尊敬の念に変わった。その時、彼は事故で亡くなった。
どうして彼が命を奪われなければいけなかったのか、何故生きようとする彼を連れていくのか、私はパニックで病院に搬送された。彼のいない世界に未練はなかった」
なのに、と区切った先生は再び口を開いた。
「私は息を取り戻した。付け焼き刃で心配する大人たちを無視して一人で考えた。何故まだ生きているのかと。それから私の目指すべき道が見つかった。彼の代わりにはなれないが、彼のような大人になって自分のような子に尽くしたいと」
「もし、私が先生のようになりたいって言ったら先生笑う?」
先生は首を振って立ち上がった。それから私に近づいて肩をそっと叩いて通り過ぎた。振り返った先の先生の背中は広かった。
季節は瞬く間に過ぎていった。私はみんなとハグをして施設を後にした。門の前で待っていたお母さんはすでに泣いていて化粧も取れている。その涙を私は久しぶりに見た気がした。
玄関で待っていたのは先生だった。私はリュックのひもをきゅっと握った。先生は何も言わない。じっと私を見つめている。
私は口角を上げて笑って見せた。
「先生、私はもう大丈夫だから」
先生は小さく頷いて私の背中を押してくれた。
それから先生には会っていない。会わないことが先生にとって何よりの報告になる。
いつも、寝る前に私は自分の胸に手を当てる。そして唱える。
「もう、わたしは大丈夫」
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