『わたしは大丈夫』

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ベランダが唯一の憩いの場。パジャマのポケットから取り出したタバコに火をつけて吸い込む。吐いた煙は風に吹かれてすぐ消えた。 外はどこを見ても暗くて静か。それだけが取り柄のつまらない場所。 もうひと吸いしようとタバコを咥えたところ、隣からすっと手が伸びてわたしの口から煙草を奪った。 「君が空気を主食にしているなんて知らなかった」  いつの間にか隣にいた先生はまだ十分ある煙草をへし折った。それから手のひらを出してきた。私は観念して煙草とライターを彼の手のひらに渡した。 「どうせならここのうまい空気を吸えばいい」 「私にとってはそれの方がずっと美味しい」  夜風が髪を撫でる。私は先生と出来るだけ目を合わせないように興味もない夜空を眺めた。 「栞がとても悲しんでいた。何故だか分かるかい?」 「私が彼女のことを『金持ちの醜い犬』って言ったから」  先生はため息を吐いて私の肩を持ち向き合わせた。 「分かっていて何故言った?」 「さあ、特に理由は。見たままのことを言っただけ。だってあの子、一食で2000キロカロリーも食べるのよ。彼女は全く運動もしないのに。加えてクローゼットに間食用のスナックがたくさん。それで膝が痛いなんて言うんだからお笑い草よ」  私は薄ら笑いで唾を吐いた。先生は笑わない。怒りもしない。ただ真っ直ぐ私の瞳を見つめている。 「君はどうなんだ。今日の検査は前回よりも良くなかった。会うたびに細く小さくなっていく。何故食べない?」 「食べたくないから。食べても吐くだけで豚の残飯にもならない」  私はきっぱり告げた。 「でも大丈夫。食べなくてもこうして生きているから」 「では、質問を変えよう。何故生きる?」 私は先生を見た。先生は答えを待っている。 「死ぬ理由がないから。生きる理由もないけれど」  私は嘲笑した。 「君は生きていると言い切れるか?」  先生はいちいち回りくどい。私はその度にうんざりする。 「君は今日で二十五歳だ。十分な大人で、周りはみんな自分でお金を稼いで服を買って、自分で部屋を借りてご飯を作っている。今の君は何一つ出来ていない。今も親の金でここの暮らしができている。親が死んだらどうする? 君はどうやって生きていく?」 「こんな歳まで生きると思わなかった。私だって知ってる。自分がクズな人間なくらい。先生が止めてよ、この心臓!」  先生の手を無理やり掴んで私の胸に押し当てた。微かな膨らみしかない胸の内で、こんな体にも関わらず大きく、そして逞しく心臓は動いている。鼻息が荒くなり視界が滲む。震える唇に涙が入る。 「……わたしは大丈夫だから。ほっといてよ」  先生は掴まれた腕をそっと引いて私の両手を包んだ。大きくて硬い手のひらだ。 「君はクズじゃない。繊細で人より少し悩むことが多いだけだ。ただ、悩んでるだけでは変わらない。怖くても動かなければいけない。何でもいい。YouTuberでも会社員でも医者でも主婦でもコックでも。誰かのためになりなさい。それで君を馬鹿にする者がいるのであれば、私は君のこの口から出てくる暴言は目を瞑ろう」  先生は両手でわたしの顔を包んで涙を拭った。頬はこけて、先生の指が骨に当たっている。 「そろそろ寝よう。疲労は大敵だ」  先生は部屋に入ってついてこない私には振り向かなかった。窓だけは開けたまま部屋を後にした。
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