アガパンサスの押し花

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「あ、別に今すぐに返事が欲しいとかじゃねぇから」  私の動揺を察したのか、浅尾さんが言った。   「オレはどうしても、インスピレーションに頼っちゃうところがあってさ。困らせてごめんね」  違う、困っているんじゃないの。すごく嬉しいの。  でも突然すぎて、しかも理由がよく分からないから、すんなり受け入れられなくて。もしかしたら、一時の気の迷いみたいなものなんじゃないかって疑ってしまう。 「こ、困るって言うか……いきなりだから」 「あれ、案外慣れてねぇの?可愛いから、さぞかしチヤホヤされてきてんだろうって思ってたけど」  そういう浅尾さんは、好きって言うことに慣れてる?あまりに自然なんだもん。いろんな女の子に、こんなこと言ってるんじゃないのかな。  ああ、ほらまた。すぐに嫌なことばかり考えてしまう。 「言っとくけど、オレは慣れてねぇからな」  頭の中を覗かれたのかと思って、ドキッとした。 「誰彼構わず好きとか言わねぇし。そもそも、他人を好きだって思うことがそんなにないから」  一瞬だけ浅尾さんの表情が陰った気がする。私、勘は良い方なのよね。きっと過去の人のことが頭をよぎったんだろうな。  いろいろあったのかもしれない。過去の恋愛のこと、触れられたくなさそうだったし。まだ元カノに気持ちが残ってるとか?やだな。想像しただけで、すごく嫌。   「でもまぁ、いきなり言われてもって思うのは分かるし。だから提案なんだけどさ、とりあえず3回デートしねぇ?」  ネガティブな想像ばかりしてしまって押し黙る私に、優しく笑いかけながら浅尾さんが言った。   「もちろん手は出さない。一切お触りなしの、すっげぇ健全なデートだよ。それで、もっと一緒にいたいって思ったら、オレの彼女になって」  “オレの彼女”っていう言葉の響きがとてもくすぐったくて、すぐに口を開くことができなかった。 「もちろん、今の時点で“こいつねぇわ”って思ってるなら、無理強いはしないけど」 「そんなこと……ない」  あるわけがない。自分でも怖いぐらい浅尾さんに惹かれている。  だからすごく嬉しい。そして同じくらい、不安な気持ちもある。それでも断る理由なんて何もなくて。   「と、とりあえず……3回ね」  私の言葉に、浅尾さんは嬉しそうな顔をして頷いた。   「よし、じゃあどっか行こうぜ」 「え、今から?」 「そう、今日が1回目のデート。行きたいところある?」 「行きたいところ……。あんまり、よく分からなくて」 「渋谷だと、買い物か……美術館もあるけど」 「え、美術館あるの?」 「あるよ。こっからだと、歩いて15分くらいかかるけどさ。行きたい?」 「うん、行きたい」  行き先が決まって、お互いにミックスジュースを飲み干してからカフェを出る。結局、浅尾さんがまた全部支払ってくれた。オレは金持ってるからいいの、だって。 そう言えば浅尾さんの洋服って、何気に高そうなのよね。素材がいいというか。デザインはすごいけど。 「松濤(しょうとう)美術館っていって、住宅地の中にあんの。小さいから、美術館というよりギャラリーって感じかな。白井晟一(しらいせいいち)って建築家の設計でさ、建物そのものが芸術なんだよ」  並んで歩きながら、浅尾さんが美術館について説明してくれた。  この前より、ほんの少しだけ距離が近い気がする。お触りなしって言ったけど……手ぐらいは繋いでもよくない?いや、ダメよね、うん。付き合ってないんだもん。絶対にダメ。  だけど周りからはカップルに見えるのかな。やっぱり、もっと可愛い服にすればよかった。   「渋谷から少し歩いただけなのに、こんな住宅街があるんだね」  Bunkamuraを通り過ぎて歩いていくと、かなり空が開けてきた。   「この辺は高級住宅街だな」 「浅尾さんの実家も、やっぱり高級住宅街なの?」 「そうなるんだろうなぁ。でけぇ家が多いし」 「横浜の、どのあたり?」 「中華街の近くだよ」 「中華街かぁ。私は……小樽出身なの」    自分のことをほとんど話していなかったのを思い出して、少し勇気を出して言ってみた。   「小樽か、行ったことあるよ。小樽運河のガス灯っていいよな」 「うん、私もあそこは大好き。嫌なことがあった時、いつもひとりで行ってた」  あ、しまった。余計なこと言っちゃった。なんかすごく、かまってちゃんっぽくない?繊細アピールみたいな。  恐る恐る見上げると、すごく穏やかな顔で微笑んでいる浅尾さんと目が合った。 「そっか」  その一言だけ。それだけなのに、どうしてこんなに泣きそうになってしまうんだろう。涙目になったのを悟られないよう、すぐに前を向く。 「風が気持ちいいな」    浅尾さんは独り言みたいに呟いて、私の故郷についてそれ以上何も訊かなかった。  ほどなくして、周囲の住宅に溶け込んだ石造りの建物が見えてきた。  大きく張り出した金属の垂木が並んだ(ひさし)に、湾曲した石壁。その真ん中に、金属の縦格子で入口がつくられている。  石と金属が調和した中世のお城みたいな雰囲気に、思わずため息が漏れた。  中に入ってすぐの小さなエントランスホールは、天井の大理石が通した淡い光に照らされていて、とても神秘的。そしてその先の中庭は吹き抜けになっていて、底部には噴水がある。  住宅に囲まれていて外側に窓をつくることができない代わりに、大きな中庭を設けて光を取り込んでいるんだって浅尾さんが教えてくれた。  館内では仏教美術の展覧会をやっていて、薬師如来坐像とか観音菩薩坐像のほか、明王の絵?とかが展示されている。  浅尾さんは展示品のひとつひとつをじっくり見ていて、その真剣な横顔に、私はついつい魅入ってしまった。絵を描く時も、こんな表情をしているのかな。  芸術とか歴史とかさっぱり分からないけれど、展示物を見るのは楽しい。浅尾さんの解説付きだから、なおさら。  ゆっくり回って、大体1時間半くらい。あっという間に時間が過ぎてしまった。  美術館を出た後は、いろいろと道を教わりながら渋谷駅まで戻って電車に乗った。荻窪までは20分ちょっと。浅尾さんは高円寺では降りずに、一緒に荻窪駅の改札を出た。   「本当は、家まで送っていきたいんだけどね」  残念そうな顔で浅尾さんが言う。私がまだ警戒していると思ってるんだろうな。 「まだこんなに明るいから、大丈夫だよ」 「あのさ。いっこ、お願いがあるんだけど」 「なに?」 「名前で呼んでくんない?」 「え、名前?」 「いつまでも“浅尾さん”じゃ、なんかすげぇ距離感じるじゃん。愛茉に名前で呼ばれたい」  その声で呼び捨てにされるだけで、鼓動が速まった。  名前で呼ぶって、呼び捨てで?いや、それは無理。さすがに呼び捨ては無理。じゃあ“桔平さん”?それも違うのかな。  どうしよう、めちゃくちゃ見てくる。期待に満ちた目で。  呼び捨てじゃなくて、さん付けでもなくて。だとしたら、やっぱり……。   「き……桔平……くん」  ものすごく勇気を出して言ったのに。浅尾さんは感情のない顔で見つめてくるだけ。もう、何か言ってよ……。   「……やべぇ」  浅尾さんが少し視線を外して呟いた。 「思ったより破壊力あったわ」  手で口元を隠して、照れているように見える。  何これ。ムズムズする。ていうか、ここで照れるのはずるい。自分で言ったくせに。   「すっげぇ離れ難いんだけど、何時間一緒にいても同じだろうな」  また私の目を見て、浅尾さんが言う。  本当は、同じ気持ち。私もそうだよって言いたい。でも、言えなくて。口を開いたら本音が漏れてしまいそうだから、唇を軽く噛み締めた。  何も言わない私に、浅尾さんはただ優しく微笑んでくれる。 「また連絡するから。学校の課題があって、すぐは無理かもしんねぇけど、待ってて」 「うん」 「じゃ、気をつけて帰りなよ」 「浅尾さ……き、桔平くんも、気をつけてね」    名前を呼ぶだけで、胸が締めつけられる。  徒歩で帰るからと、桔平くんは私の家と反対の方向へと歩いていく。  こっち見てくれないかな。そう思いながら後ろ姿を見つめていたら、桔平くんが振り返った。そして右手を上げて、笑顔を見せてくれる。  私も手を振って、速まる鼓動を誤魔化すために家路を急いだ。
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