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1.疑い
『モラハラ』という言葉をよく聞くようになったのは、いつの頃からだろう。
正直、それを身近なことだと知ったのは、つい最近のことだ。
「ハンカチ!」
寝室から聞こえた声に、私はコンロの火を止めてパタパタと駆けた。
ベッドの横でスーツに着替えている夫は、私をジロリと見ると、その視線をベッドの上のジャケットに向けた。
着古した無地のカットソーにワイドパンツ、その上にこれもまた何年使っているかわからないエプロンを着た私とは正反対で、夫のスーツは春に買った三着のうちの一着で、ダークグレーで格子柄のネクタイは店員さんに勧められて夫が決めた。
毎月月末に理髪店に行く夫の髪は、店で勧められたお高いワックスで後ろに流していて、いかにも仕事のデキる男。
百八十センチに少し届かないくらいの身長と、太っているわけでも痩せすぎているわけでもない体型、クールな印象を与える一重できりっとした目、男性の中でも低い方だと思われる声。どこをとっても出会った頃から変わらない、かつて私が惹かれた彼そのもの。
私は夫のすぐ横のチェストから、グレーのチェック柄のハンカチを取り出して、差し出した。
「出しとけよ」
乱暴に奪い取られ、ハンカチはジャケットのポケットに押し込まれる。
昨日は出しておいた。
出しっ放しにするな、と言われた。
もっと以前、キッチンからハンカチが入っている場所を伝えたら、一週間無視された。
「行ってくる」
キッチンに戻るタイミングをなくして突っ立っていると、夫がそう言って鞄を手に持った。
「あ、お弁当!」
私はパタパタとキッチンに戻り、焼き上がってからもフライパンに入れられたままの卵焼きを皿に移した。
「うわぁぁぁん! ままぁ!!」
息子の声に、思わず肩に力が入る。
素早く三度瞬きした後、バタンッと玄関ドアが勢いよく閉まる音がした。
「えっ? お弁当――」
「――ままぁ!!」
「はいはい!」
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