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昨日の事件の発端は、放課後、部活動の指導のために訪れたサッカー部の外部コーチだった。俺は球技には明るくないので知らないけど、このあたりじゃ地域のサッカークラブなんかも指導している名の知れた人らしい。サッカーのことだけ考えていればよかったのに、そのおっさんコーチは何を思ったか花壇でデッサンをしていた八瀬に話しかけたと言う。おっさんは八瀬の絵を気に入ったらしく、「絵を見せろ」だの「絵をくれ」だのと言ったが、八瀬はそれを拒否した。おっさんがDomだなんて八瀬はおそらく気づいていなかったのだろう、帰ろうとした八瀬を引き止めた「待て!」のおっさんの一言がコマンドとなって八瀬を立ち止まらせてしまった。おっさんは八瀬がSubだと気づくとコマンドを使って八瀬に言うことを聞かせようとし、さらにそれを拒否した八瀬はドロップしてしまったのだった。
騒ぎに気づいたのはサッカー部の部員で、彼が職員室に駆け込まなかったら――そしてそこに俺がいなければ、八瀬はもう少し悪化してしまっていたかもしれない。俺が八瀬のところに駆けつけたとき、外部コーチのおっさんはサッカー部の顧問に取り押さえられていて、八瀬は一人、近くでうずくまっていた。自分の肩を抱いて震えている彼を見てすぐにSub dropだと分かったし、一か八かケアを行うしかなかった。
八瀬に俺の指示が通じたことには驚いたけど、本当に幸いだった。――ある程度の信頼がなければDomからのコマンドは受け入れられない。信頼していない者からのコマンドはSubにとっては苦痛でしかないと聞いたことがあるし、そういった場合にSubの本心がコマンドを拒むと、コマンドに反抗しようとする心と従属しようとする本能が相反してSub dropに陥る。ドロップしたSubを助けるにはドロップした原因のコマンドを上書きするように誰かがケアしなければならない。Subの信頼に足る者が、Subの心と本能を落ち着かせなければならないのだ。
八瀬に信頼されるほど八瀬と関わりがあったわけじゃないけど、ケアできたんだから、そういう意味ではすごくよかった。
だけど、俺の中にはあのときのプレイの感覚が残ってしまっている。これは良くなかった。
ドロップした八瀬の瞳がこちらを捉えた瞬間の、あの本能的な幸福感。身体の底からぞわぞわと湧き上がって指先まで伝わっていくような、得体の知れない何か。Domの本能だから仕方ないとは思いつつ、八瀬にコマンドが通じた幸福感は、俺にとっては恐ろしかった。
――プレイは、やっぱり苦手だ。
心の奥に生じたDomの本能をかき消すように、俺は生徒に「そろそろ答え合わせするぞ」と声をかけた。
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