02 プレイと信頼

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02 プレイと信頼

 『こっちを見ていて』。そう、『いい子だな』。そのまま『おすわりして』。……うん、『よくできてる』。『すばらしい』。  そんな言葉をかけている最中は恍惚とした表情のSubを見て満足感と幸せで胸がいっぱいになっているのに、プレイが終わると罪悪感と自己否定で胸がいっぱいになる。理由は分かっている。プレイの最中、どうしても相手の名前が呼べないからだ。  結局俺はプレイの最中、相手をただのSub性を持つ誰かとしてしか認識できない。プレイ中の俺はどこまでもDomでしかないらしい。人間性のない、Domという性の本能しかない人間だ。  性的な接触を伴う関係なら別なのだろうけど、俺はそういったプレイをしたことはないので名前が呼べなくてもそこまで問題はなかった。問題はないが、Subを「Subとして」でしか認識できない自分が恐ろしい。やはり俺はDomである自分が怖い。  だからか、あの一件があって一週間経った今日、生物室で授業の片付けをしているときに八瀬が現れて俺は必要以上に焦ってしまった。 「高宮先生」  生物室のドアを開けた八瀬は、俺を呼ぶとにっこり笑う。俺は思わず「え」と声に出していたが、八瀬は気にせず教室に入ってきた。しっかりと話すのは初めてだったのに、親しげに「授業の片付けですか?」と聞いてくる。思ってもみなかった態度に戸惑いながらも、他の生徒と喋るように話すほかない。 「そう。さっき顕微鏡での観察だったんだけど、カバーガラス割った子がいてさ」 「懐かしいですね。去年おれも使いましたよ」 「懐かしいって、一年も経ってないでしょ?」  普通の会話を心掛けて会話してみると、あんな事件があったわりに、八瀬は持ち前の明るさを損なっていないように思えた。彼の明るい表情とは裏腹に、俺は少しブルーになる。最悪なことに一週間前のを思い出してしまっていた。Subにコマンドを実行してもらったとき、それを褒めるときの高揚や充足感。薬でダイナミクス不調を何とか落ち着けている俺には思い出したくない感覚だ。 ――八瀬はSubだ。でも、Subだけど八瀬だ。馬鹿みたいなことを考えながら、八瀬から目を逸らした。教材の片付けと会話に集中しようとする。 「……あの」  改めて「あの日のことは考えない」と心に決めたのも虚しく、八瀬は一呼吸置いて「一週間前のことなんですけど」と言った。 「……おれ、ドロップ中のことあんまり覚えてなくて。ドロップから引き上げてくれたのって、先生ですよね?」  俺は教材を片付ける手を止めた。八瀬をちらと窺うと、八瀬もこちらを窺っていた。何と答えるべきか分からないまま、沈黙する。  八瀬のことはよく知らない。美術部であることは廊下に絵が飾られているので(セーラー服の女の子の絵だ)前から知っていたし、俺が担当しているクラスの生徒が八瀬の話をしていたからクラス外にも友達がいて、わりと交友関係も広い方なのだろうとは認識していた。しかし、それ以外のことと言えば正直なところ知らないに等しい。 「ケアのためとは言え、同意もないまま……悪かったよ。ごめんな。体調は大丈夫?」  結局、俺は八瀬からの質問を認めた。俺が認めなくても噂にはなっていたし、八瀬にはとっくの昔に他の先生から事情が伝わっていただろうから。  八瀬は微笑んで「体調は大丈夫です」と言う。 「謝られることなんてないですよ。先生が助けてくれなかったら、おれは救急車が来るまでドロップしたままだっただろうから」 「……現場を目撃した生徒もいたでしょ。せめてあの場じゃなくて保健室でケアをするべきだったと思ってさ。Subってこと、友達に言ってるわけじゃないと思うし」  DomやSubへの差別や偏見が減ってきたとは言え、ダイナミクス性を公にしたがらない人も多い。あの日、思わずその場でケアを行ったのは配慮が足りなかったなと後から思っていた。 「言ってはないけど、別に隠してるわけじゃありませんよ? Subだって分かったあとも、周りの奴らは別に何にも言ってこなかったし」 「いい友達を持ってる」 「友達だけは恵まれてます」  八瀬が笑う。その言い方に少し引っかかったが、すぐに「お願いがあるんです」と続けられたので言葉の意味を問うタイミングを逃してしまった。  教卓代わりの実験台を挟んで俺と向かい合った八瀬は、しかとこちらを見て真剣な顔をしていた。その顔を見て、正直あまりいい予感がしなかった。 「お願い? って、何? 俺にできることだったら全然いいけど」とふざけるように返した俺に、八瀬は真面目な顔を崩さずに言う。 「プレイして欲しいんです」 ――プレイ?  その意味を理解するのに時間がかかった。 「え、なんで、俺?」 「多分、高宮先生じゃないとできないから」 「……どういうこと?」  八瀬は質問に答えず、実験台を回り込んで俺の近くに来ると「手、出してくれませんか」と聞いてくる。俺は訳がわからず、右手を八瀬に差し出した。八瀬も右手を出し、一瞬躊躇ったものの、そっと俺の手に触れた。握手をするように握り込まれる。  ふと顔を上げて俺を見た八瀬は、どことなくほっとした様子だった。 「あの日から、プレイはおろかDomに近づくのも怖くなっちゃって。……高宮先生なら、プレイできるかもって思ったんです」 「……なんで、俺?」  俺は先ほどと同じ言葉を繰り返した。質問の意味は少し違ったけど、八瀬はちゃんとそれを汲み取って答える。 「先生は、おれが一番信頼できるDomだから」  八瀬の言葉は質問の答えにはなっていたものの、俺の疑問は尽きなかった。
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