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社会人・年中行事編 12月・選択
換気扇がうるさい音をたて、雪平鍋の底からふつふつと泡がのぼってきた。瀬川が大きな体を丸めるようにしてガスコンロの前に立ち、雪平鍋に蕎麦を投入する。ぼくはまな板で小葱を刻んでいる。
まな板のむこうには海老の天ぷらと牛肉の煮つけが器に盛られて鎮座している。葱を刻みおわったぼくは紅白蒲鉾にとりかかる。毎年思うのだが、どうして年末になると蒲鉾の値段はあんなに高くなるのだろう。いやいや、これも需要と供給の原則が働いているのか。正月のためにいつもは蒲鉾を買わない人々が売り場に押し寄せるのだから、値上がりは当然。理屈にはあっている。
瀬川が鍋をのぞきこんだ。白い泡が鍋のふちぎりぎりまであがっている。ふきこぼれるぞ、といおうとした瞬間に火を弱め、箸で中をかきまわした。一本すくい、真剣な顔つきで食べて、うなずく。
「先生、ちょっとずれて」
ぼくは一歩下がり、瀬川は鍋を片手にシンクへ移動した。ざるに蕎麦をあけるともうもうと湯気がたつ。
瀬川がふたつのどんぶりに蕎麦を盛る。ぼくは葱と蒲鉾をそれぞれにのせ、小鍋で温めていたつゆをかける。さらなるトッピングを海老天にするか牛肉にするかはそれぞれの判断に任されることになった。昼間スーパーで「年越し蕎麦の具は何にすべきか」論争が繰り広げられた結果である。
ところでぼくは長いあいだ、年越し蕎麦は「かけ」だと思っていた口だ。実家の年越し蕎麦は紅白蒲鉾と葱しかのらないシンプルなものだった。ところが瀬川は「え、海老とか肉とかのせちゃだめなんですか?」といい、いわれてみればその通りのような気もして、ぼくらは惣菜コーナーであれこれ買いこんだのだった。
こたつの上にどんぶりを並べ、海老天と牛肉の器も並べる。つけっぱなしのテレビ画面では年末恒例の歌番組がはじまっている。
ふたりでずずっと同時に蕎麦をすすった。トッピングにぼくは海老、瀬川は肉を選ぶ。やけに贅沢な気分だ。瀬川は二杯目を海老にするらしい。ぼくは二杯目を食べられるだろうか。
「いつ実家に行くんだ?」
半分ほど蕎麦を食べて、ぼくはなんとなくたずねた。就職してから瀬川はこの二階に住んでいるが、彼の実家は帰ろうと思えばいつでも帰れる距離にある。
「一月二日です」
「一日は?」
「親戚が二日に来るんで、あわせるほうがいいかなって。先生は?」
「三が日はどこにも行かない。受験が終わるまでは忙しい」
瀬川のどんぶりはほとんど空のようだ。
「二杯目は?」
「おれの勘ちがいかもしれないけど」
ふたり同時に話したせいで声がかぶった。おかげでふたり同時に黙ってしまい、テレビの番組司会者の声が急にはっきり聞こえてきた。
「なに?」ぼくは箸で蒲鉾をつまむ。
「あの、予備校やめるんですか」
驚いたぼくは蒲鉾をつゆの中に落っことした。
「ああ、うん。三月末で終わるつもりだ」
「そのあとは?」
「内定段階だけど、常勤職が決まったから……」
「それって……」瀬川の顔がぱっと明るくなる。「おめでたいんでしょ?」
ぼくはうなずき、でも気恥ずかしい気分になる。
「どうしてわかったんだ?」
「下書きがあるから」瀬川はこたつの周辺を指さした。
「退職届」
「来年になったら話そうと思ってた」
ぼくはいいわけがましくいって、蕎麦の残りをすする。大学ではなく研究機関だが、長いあいだ願っていたことだし、今のご時世ではなかなか難しい。数日前に連絡をもらったときは自分の目が信じられなかった。
「これで先生って呼ばれることもなくなるわけだよ」
「え、先生じゃないんですか?」
「教えることはないからさ」
そういえば瀬川はぼくをずっと「先生」と呼びつづけている。たしかに彼と最初に会ったとき、予備校でぼくは彼の「先生」だったのだが。でも瀬川がぼくの生徒だったのはその一年だけだし、来年の四月からは僕は公式に「先生」ではなくなる。
「瀬川君、二杯目は?」
ぼくはさっきいいかけたことを口にする。瀬川のどんぶりはとっくに空になっている。それなのに瀬川は箸をおき、ぼくの言葉とぜんぜん関係ないことをいう。
「先生がいま何を考えているか、当てられますよ」
「何だよ」
「いつまでおれに先生って呼ばれるんだろうって。思ったでしょ?」
ぼくは苦笑いする。
「思ってないよ」
瀬川はにかっと笑う。ぼくの内心などお見通しという顔つきだ。あと数時間で今年がおわる。
(「社会人・年中行事編」おわり)
次は時間をさかのぼって「大学生・新入生編」に移ります。
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