大学生・新入生編 1.果物ナイフ

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   *  先生。  受験の前に話したこと、本気ですから。  おれはもう生徒じゃないです。    *  ぽかぽかした陽気が数日続いたのに、今日はひんやりして寒い。空は白い雲で覆われている。花曇りというのはこんな天気をさすのだろうか。三月。桜はどこかで咲いたという報道があったが、このあたりはまだまだ、しかしスギは花盛りらしい。古い友人の渡辺はぼくの家の戸をガラッとあけたとたん、苦しそうなくしゃみを連発した。 「あー……俺もついに花粉症かなぁ」 「去年も同じこといってなかったか?」  呆れた声を出しても渡辺は右手に下げたビニール袋をぼくに押しつけただけで、左手はズボンの尻ポケットをさぐっている。 「さっさと病院でみてもらえばいいのに。これは?」 「キウイ。実家から段ボールいっぱい送られてきたんだ。やるよ」 「そりゃどうも」  渡辺は盛大な音をたてて鼻を噛むとスニーカーを脱いだ。 「他の連中は?」 「そろそろ来るんじゃないか。先に千円払え。酒と飯代」 「やすっ。やっぱり宅飲みはいいなあ。あ、これも持ってきた」  渡辺はリュックをおろすと箱に入った日本酒を取り出し、ぼくはビニール袋をのぞきこんだ。生の果物をおがむのは久しぶりだ。 「キウイって皮剥いて食べるんだよな」 「母親いわく、ナイフで半分に切ってスプーンで食えばいいってよ。つまみ、足りるか?」 「誰か持ってくるだろう。鍋の材料はあるから、あと二人か三人来たらはじめようか」  ビールとチューハイの缶はもうこたつの上にある。今日は三月第四週の日曜日、時刻は午後四時。悪友のひとりが四月に転勤になるということで、送別会兼恒例の飲み会の場としていつものようにぼくの家が選ばれた。渡辺がいちばんにやってくるのはいつものことだし、面子が揃うのに時間がかかるのもいつものことだ。  渡辺と同時にこたつに足をつっこみ、ポテトチップスの袋をあける。渡辺が目の前にいるとこたつと本に埋もれた自分の部屋がたちまち学部時代のサークルの部室にみえてくる。  授業の合間のたまり場スペースを維持するために存在したようなサークルだったが、そこで知りあった連中とは学部を卒業して六年経ってもいまだに続いているのだから、ときどき不思議な気分になる。ぼく以外はみんな就職したし、転職して二社目というのもいるのに。最初にいる者の特権でぼくと渡辺はそろって缶のプルタブを引く。BGMがわりのテレビではチャンバラが繰り広げられている最中だ。 「変わらないよな、おまえの家」と渡辺がいった。 「大学は?」  ぼくはひらひら手をふる。 「まあなんとか。そっちは?」 「今年はわりと手ごたえあった。去年のいまごろはそろそろ転職しようと思っていたけど、やめなくてよかったと思ってる」 「それはよかったな」 「そっちの先生業は? まだやってんの?」  ぼくは顔をしかめた。 「先生っていうなよ。ただの講師だ」  渡辺はぼくの顔つきなどまったく気にしていなかった。 「教えられている方にとっては先生だろ。高校生? あ、受験って終わったところだよな」 「ああ、終わった終わった。今はいちばん気楽な時期だよ。みんな合格したし」 「やっぱり自分が教えた生徒が合格すると嬉しいか?」 「まあ、そりゃね。ときどき懐いてくるのもいるし」  頭の中に顔がひとつ浮かぶ。最近よくあることだ。おまけに一度思い浮かぶとなかなか消えてくれない。ぼくは軽く首をふる。渡辺が目をすがめてぼくをみた。 「なんかあった?」 「なにが」 「いや、今なんか変な顔したから」  ぼくはひやりとする。渡辺は昔からこうだ。妙に勘がいいというか、他人の気持ちや変化に敏感なところがある。 「そうだな、ほら、生徒に告白されたとか」  冗談のような口調だったが、ぼくは反射的にこたえた。 「そんなのあるか。高校生だぞ」 「でもさ、おまえの顔ならぜんぜん二十代前半で通るでしょ。そこまでありえない感じしなくない? バレンタインとかチョコもらったりするんじゃないの?」 「あのなあ、そういうのは禁止だよ禁止。下手したらクビになる」 「だけど合格したらもう関係ないんじゃね? おれらの大学だって、元学生と結婚した教員もいるし」 「相手は十八歳だぞ。ないないないない」  ぼくは少々ムキになっていたかもしれなかった。すこし強く否定しすぎた。渡辺がずいっとこたつの上に身を乗り出してきたのでぼくはまたひやりとした。 「そうかなあ……むしろ大当たりとか? 目をキラキラさせた女子高生から、先生わたし合格しました、これも先生のおかげです、好きです、とかいわれたんじゃないの?」  目をキラキラさせた女子高生だって? まったく何をいっているんだ。 「ハズレ。そんなことあるわけないだろうが」  今度こそぼくはきっぱり否定して、缶チューハイを一気にあおる。タイミングよくピンポーンと玄関のチャイムが鳴った。 「ひさしぶりぃ。変わらないな~」  勝手知ったる連中がどやどやとあがりこんでくる。ぼくは鍋の用意をするために台所に立った。  送別会は無事におわり、鍋もスナックも食いつくされた。最後のひとりが帰ったあとに残ったのは渡辺が持ってきたキウイがひとつだけだ。最後のひとつには手を出しにくい──なんて遠慮をするような連中ではないのだが、たまにはこんなこともある。  キウイを持ってきた渡辺は、珍しいことにいちばん先に帰った。いつもなら最後のひとりなのだが、途中でスマホを片手にキッチンへ消えたと思うと、ちょっと野暮用、といって慌ただしく帰ってしまった。さてはなんかあったな、と田浦がいった。  渡辺には学部のころからつきあっている相手がいる。これをきっかけに「最近どうよ?」という会話がはじまったものの、金石が二次元の嫁について熱く語りはじめたおかげで尻すぼみになった。何にせよ渡辺が帰ったあとでよかったとぼくは思った。ほかの連中があらわれる直前の話を蒸し返されたにきまっている。 (目をキラキラさせた女子高生から、先生わたし合格しました、これも先生のおかげです、好きです、とかいわれたんじゃないの?)  勘のいいやつというのは面倒くさい。たしかに似たようなことがあった。とはいえ修正が必要だ。「女子高生」を「男子高生」に入れ替えなければならない。  ぼくはひとつだけ残ったキウイをお手玉する。この果物の名前はたしか、オーストラリアだかニュージーランドだかに棲む鳥の名前からとったのだったか? アルコールで喉も渇いているし、今日のうちに食べてしまおう。  果物ナイフはシンクの横に置きっぱなしだった。僕はスプーンを探したが、酔っぱらっているせいか、そのあたりに転がっていたはずのものがみつからない。スプーンがあれば半分に割るだけでアイスクリームを掬うように簡単に食べられるのに。まあいい、皮をむけばいいのだ。ぼくは果物ナイフでキウイの皮を剥きはじめる。毛が生えた緑色の皮は薄くて剝きにくい。果物ナイフを使うこと自体が久しぶりのような気がする。  もし渡辺に話していたら、あいつは何といっただろうかと思った。ぼくの予想では渡辺の反応は次の三つのどれかだ。1、茶化す。2、笑いながら、あるいは真面目に、それでおまえはどうするの?と問い詰めてくる。3、まずいことを聞いたという顔をして、話をそらす。  渡辺ならどうするか。2の「笑いながら」バージョンがいちばんありそうだ。3だったらどうしよう。ある意味いちばん困る反応かもしれない。  ながく友達づきあいをしていても「けっしてしない話」というのはそれなりにある。おなじ講義をとっている女の子が可愛いとか、胸が大きいとか、二次元の嫁の話なら問題ない。でも微妙な話はしない。どんな女の子がタイプなんだ、みたいな問いはぼくをずっと困惑させたし、誰それの唇がエロいとか、そんな会話もぼくは苦手だったから、いつも聞くだけに徹していた。話さなかったことは他にもある。たとえば学部二年の春から夏まで、ぼくがずっと目で追っていたのはいつも院生室でたむろしていた男の先輩だったとか。  もっとも院生室の先輩については、ぼくはずっと自覚がなかった。「まるで恋しているみたい」とぼくにいったのは夏にはじまった読書会に新たに加わった三年生(女性)で、特に深い意味はなかったといまでも思う。でもぼくはそれから、自分でも驚くほどその先輩を意識してしまい、しまいに院生室に近寄れなくなってしまった。  もともと学部生はあまり院生室にいないものだから、誰も気がつかなかったはずだ。ぼくが院にあがった時はもうその先輩は大学にいなかった。  果物ナイフでも人は刺せるし、言葉も人を殺せるときがある。学部四年の終わりごろ、学科はちがったが、とある講師の不用意な発言がネットで炎上し、大学で問題になった。大学院へ進学してからはLGBT関係のサークルのチラシをキャンパスの掲示板でみるようになり、新歓時期にキャンパスを散歩していると、セクシャリティやジェンダーについて解説したパンフレットをもらったりもした。  とはいえそのころのぼくはというと、院生室の先輩のことなどすっかり忘れていた。渡辺をはじめとした友達がみんな就職した中、ひとり大学に残るのはぼくなりに覚悟が必要だったし、割りのいいバイトをみつけることのような、大学以外に気にかかることもいろいろあって、つまりぼくの頭はいつも忙しかった。友達にはずっと同じ女の子とつきあっている渡辺のようなやつも、知らないうちに相手が変わっているやつもいたが、ぼくは恋愛ごとに縁がなく、縁がないまま六年経ったのだ。  皮を剥いたキウイは皿の上でつるつる滑った。ぼくは用心深くスライスし、立ったまま二切れ食べた。恋愛ごとには縁がなかったはずなのに、ここ最近、今さら何年も前のあれこれ──院生室の先輩のこととか──を思い出しているのは、もちろん瀬川のせいだ。はじめて瀬川に会ったのは去年の四月で、予備校のお試し講義のあとに廊下で呼びとめられて質問されたのだった。第一印象は「背が高い」だった。  予備校というのは志望大学への攻略方法を講義する場所だから、講義以外で生徒と話す機会は塾のように多くはない。それなのに、そのあと瀬川とは話す機会がそこそこあった。むこうから質問してくるというのもあったし、ハンバーガー屋でばったり会ったこともあった。  街中で予備校の生徒にばったり会うなんてめったにあることじゃないし、ぼくの方から話しかけることもなかっただろう。でも瀬川はにこにこしながら「先生」と声をかけてきた。たしかに懐かれているとは思っていたし、それはぼくをいい気分にさせた。  仮に瀬川が女の子だったら、ぼくはもっと用心したにちがいない。予備校で講師をしていて、生徒と何かあるのはとてもマズイ。まったく何もなくても誤解されるだけで問題になりかねない。  ところが瀬川のようなデカい高校生がぼくのような新米講師に懐いても、周囲はなんとも思わないのだった。逆に「先生人気あっていいですね」と事務の女性にいわれるくらいだ。  だからぼくは油断していたのだと思う。  先月の十四日、滑り止めの私大受験が終わったばかりの瀬川から「相談があるんですが」とメッセージが来た。時期が時期だったのでぼくは戦々恐々とした──予備校にも学校にも親にもいえないような相談か? と思ったのだ──たしかにある意味その通りだった。  ぼくはハンバーガー屋で瀬川と会った。彼はぼくにラッピングされた箱を渡してきた。チョコレートだった。  あのときのやりとりは今もはっきり思い出せる。 「悪いけど、これはもらえない」というのが、ぼくがまず発した言葉だった。 「おれが男だから無理っていうことですか? それはべつにいいんです。もらうだけもらってくれれば……」  すぐに瀬川がいった。準備していたようなせりふだった。 「いや、そうじゃなくて」  ぼくは無意識に指を折っていた。恥ずかしいから誰にもいわないが、緊張すると子供みたいに指を折って数える癖がある。その日は二月十四日だった──つまり国公立大学前期入試まであと十一日の時点だった。  あとたった十一日だ。誰かの一生を左右するかもしれない十一日間。 「瀬川君は高校生だし、ぼくは予備校で働いている。男だからとかじゃなくて、生徒からもらうのはまずいんだ。だから……」 「じゃ、おれが生徒じゃなくなればもらってくれるんですか?」  瀬川はにこっと笑った。 「先生が好きです」  笑顔がナイフみたいに自分を刺すなんて、あっていいんだろうか?  あれから一か月とすこしたつ。瀬川とは何度かメッセージのやりとりをした。入試が無事終わったこと、合格したこと、もうすぐ卒業式だということ。ぼくはそのたびに短く返信するが、あの会話の続きをどうしたらいいのか、わかっていない。  いや、受験は終わったし、何もなかったようにしていればいいのだろう。瀬川はこれから大学に入る。同じ学年の友人がたくさんできるし、慣れない環境にとまどうことになる。予備校の講師なんてどうでもよくなるにきまっている。  こたつの上でスマホが鳴った。メッセージアプリに着信。瀬川のアイコンだった。 『先生。  受験の前に話したこと、本気ですから。  おれはもう生徒じゃないです』  ぼくはキウイをもう一切れ口に入れて、どうしたらいいのか迷った。またスマホが鳴った。 『男だから無理ってわけじゃないのなら、おれとつきあってください』 そしてすぐにまた着信。 『おれがいってること、変じゃないと思う。 好きかどうかわからないけど、まずつきあってみるっていうの、 おれの友達にもいるし』  ぼくはため息をついてスマホをタップした。 『誰ともつきあったことがないから、そういうのはよくわからない』  送信マークをタップしたとたん、心臓が激しく鼓動した。ずいぶん子供っぽい返しじゃないか? 返事は早かった。 『誰ともつきあったことないのなら、おれとつきあおうよ。そしたらわかりますよ』  ぼくは深く考えずに文字を送った。 『わかるって、何が?』 『おれが先生を好きだってことと、 先生がおれのことを好きになるかどうかってこと』  ぼくはしばらくメッセージアプリの画面を眺めていた。酔っていたせいもあると思う。頭の中がぐるぐるしはじめた。どうしたらいいのかわからなくなる。 『先生、起きてる?』  ぼくは通話ボタンを押した。瀬川はすぐに出た。 「もしもし、先生?」  どうして電話にでたらモシモシっていうんだろう。その時ぼくの頭をよぎったのはそんなことだった。どうして人間というのは、こんな時にどうでもよいことを思い出すのか。 「瀬川君……その……」  ぼくはやっぱり、何をいえばいいのかわかっていなかった。 「卒業式が終わったら、一度どこかで会って……話そうか」 「はい! もちろん!」  スマホから瀬川の声がきこえる。ぼくは瀬川の声がけっこう好きなのだった。そのことが今、わかった。
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