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大学生・新入生編 2.座礁船
瀬川の口がぱかっとひらいて、肉の壁みたいなハンバーガーにかじりつく。
ぱくっ、むしゃむしゃ、ごくり。瀬川の口は大きくて、しっかりした顎がよく動く。学部時代に顎関節症になったことのあるぼくには羨ましい食べっぷりだ。こうして向かい合っていると、瀬川の肩幅が思っていたより広いことや、眉が整えたようにしゅっとしていることがよくわかる。
いや、そんなことは前からわかっていた。
ぼくはそわそわと足を動かす。落ちつかなくてはいけないと思えば思うほどそわそわしてしまう。ここに来るまでのあいだも、緊張するなと何度も自分にいいきかせてきた。
ぼくはどういうつもりでここにいるのか。受験が全部終わって、卒業式がすんだら一度会おう、と瀬川に約束したからだ。高校の卒業式は三月一日に終わり、瀬川は第一志望に合格した。街にはこれから大学生になる元高校生と春休みの大学生が溢れている。晴れた空には人間の目にはみえないスギ花粉が舞っている。
今日、ぼくは待ち合わせに遅れた。
予定外のことが急に起きるのは、好きではない。
自分が遅刻するのも好きではない。それなのにこんな日にかぎって遅れるとは。駅から走ったのでハンバーガー屋についた時は肩で息をしていた。瀬川はトレイを両手に抱えて待っていた──席をとってくれとメッセージを送ったのだ。
瀬川とは前もこのハンバーガー屋で話をしたことがある。お盆のころで、蒸し暑い日で、急な雨が降ってきた。ぼくは走ってハンバーガー屋の軒下に駆けこみ、そこで瀬川にばったり会ったのだ。あの時は長々と話しこんでしまった。すぐやむと思った雨が大雨になって、出るに出れなくなったせいだ──少なくともぼくはそう思った。
何を喋ったのかはよく覚えていない。受験に関係のない話だったのはたしかだ。当時ちまたの話題をさらっていたアニメ映画とか、ゲームとか、そのあたり。
「すごいね」
そしていま、ハンバーガーをかじる瀬川を前に、緊張をほぐしたい一心のぼくはすごくどうでもいい話をしている。
「おれがですか?」
「そんな肉の壁みたいなハンバーガー、どうやって食べるものかイメージできなかったけど、いまわかった」
「肉の壁って」瀬川は白い歯をみせて笑った。
「壁じゃないか」
「じゃ、俺もCMに出れないかな」
瀬川がいったのは『いちばん美味しそうに食べるのは、誰?』というキャッチが載った広告のことだ。出演しているのはオーディションで選ばれた素人で、子供から老人までいろいろ登場する。ただし──
「このハンバーガーの広告じゃないな」
「そっか。残念」
今日、ここで彼に会った理由はなんだったか。思い出すようなことじゃない、ぼくはよくわかっている。でも肝心な話に持っていくのがいやで、ぼくはつい、別の話をはじめてしまう。
「そういえば、このハンバーガー屋が出すものだけで一日に必要な栄養素をとろうと思ったら、サイドサラダを何百個か食べないとだめらしい」
瀬川の喉がごくっとさがり、ハンバーガーを飲みこむ。
「このハンバーガー以外のご飯が食べられないって、何が起きたらそんなことになるんですか」
この返しは想定外だった。ぼくは素早く答えを考えた。
「たとえば──このチェーンのキッチン以外の食品が全部、なにかのウイルスにやられてしまうとか」
「ああ、人がゾンビになるウイルスですね」
瀬川はノリがいい。
「そう。たまたま同じハンバーガー屋にいる人だけが無事で、外はゾンビだらけ。で、店のキッチンにあるものでサバイバルしなくちゃいけない」
「ゾンビと戦うのにサイドサラダだけなんて、だめじゃないかなあ。肉がないと力が出ませんよ」
「プログラミング界隈では有名な問題らしい」
ぼくは友人から聞いた話を披露する。瀬川がストローを咥えると、ぎゅるぎゅるぎゅる──音を立てて残り少ないコーラが吸いこまれていく。
「先生は大学でそういう研究しているわけじゃないんですよね」
「あ、うん。ぼくはその……理と文の中間みたいな分野だから」
「おれ合格しましたけど、まだぜんぜん大学のイメージができないです。どんな感じなんですか?」
「どんな感じ──」ぼくは十年前の自分がどう感じていたかを思い出そうとした。
「最初はとまどうだろうけど、すぐに慣れるよ。必修以外の講義は自分で決めるんだ。入学式のあとのガイダンスはさぼらない。シラバスを読んで、気になった授業の最初の一回を聞いた後に正式履修すればいい。履修登録の期限を忘れると大変だから、そういうのはちゃんとやらないとまずい」
「やっぱよくわかんないけど、ま、来月になれば嫌でもわかるんですよね」
瀬川はポテトの紙ケースを傾けてトレイにざらっとこぼした。
「先生も食べてくださいよ」
ハンバーガー屋のポテトには中毒性がある。
クーポン価格のLサイズのポテトとMサイズのコーヒー。これが学部のころ、ぼくがいちばん食べていた組みあわせだった。金がなくて、レポートに追われている時の黄金コンビ、最小限の金額でカロリーを得て脳を覚醒させられる──栄養バランスなどくそくらえ。
でも今日買ったのはMサイズコーヒーだけだ。店に着いたときは空腹を感じなかったからだが、瀬川が食べるのを眺めているとなんだか口寂しくなっていた。でも、高校生のポテトに手を出すわけにはいかない。いやもう高校は卒業したんだっけ。
「何か買ってくる」
「ハンバーガー?」
「チキンナゲット」
ぼくは席を立ってカウンターへ行き、前もこんなことがあった、と思った。何年も前だ。高校の卒業式のすぐあとのこと。どういう流れだったか忘れたが、クラスメイト数人とハンバーガー屋に行ったのだ。
すごく仲のいい友達同士、というわけではなかった。あの時のメンツが何をしているのか、いまのぼくはまったく知らないし、どんなことを話したのかも覚えていない。ただ、「彼」がぼくの前に座っていたのを思い出したのだ。そしてあのときも、ぼくは途中でチキンナゲットを買いに行った。
理由? 今の瀬川のようにハンバーガーを食べる「彼」を見ているうちに、ズボンがきつくなったからだ──まったく高校生というのは!
彼とはそんなに話をしたこともなかった。ただ、ぼくはときどき彼をみていた。たとえば体育の授業のときとか。彼はバスケ部だった。放課後、ひとりでシュートの練習をしている彼もみた。隣のクラスの女子とつきあっているといわれていた。制服姿の彼が、プリーツスカートの女子と並んで歩いているのもみた。
そうだ──瀬川のところへ戻りながらぼくはさらに思い出した。あのとき、チキンナゲットとバーベキューソースをのせたトレイをみつめながら、こんな考えが頭にうかんだのだ。
ぼくがきみを好きだとしても、きみにはそれは関係がない。
ぼくは男で、きみも男だから。
どうしてぼくはあのとき、そんなことを思ったんだろう。
どうしてみんな、好きや嫌いをあっさり口にできるのか。
小学校四年生のとき、仲のいい女子の二人組がいた。頭のいい子たちで、他の女の子より目立っていて、すこしえらそうな感じの二人組だ。クラスメイトや教師にあだ名をつけるのがうまく、よくしゃべる。
ところが彼女たちはあるとき、同じクラスの男子を一種のからかいの標的に選んだのだ。きっかけは二人組の片割れがそのクラスメイトを「好き」になったのに、彼が相手にしなかったこと。
彼女たちは、ぼくらが気に入らない相手を蹴ったりするような、露骨なことはしなかった。だが辛辣なあだ名をつけ、本人に聞こえるか聞こえないかの距離でささやいてみたり、意味深なそぶりでクスクス笑ったり、そんなことをした。
ぼくは彼に何もしなかった。でも二人組はぼくも自分たちの同盟の一員であるかのようにふるまい、ぼくは二人にやめろということができなかった。
当然のことながら、ぼくは彼と友達にはなれなかった。
小学校四年生の夏休み、ぼくは転校した。すこし前からわかっていたことだったが、ぼくはクラスの誰にもその話ができなかった。秋になってから、二人組はぼくに手紙をくれたが、ぼくは返事を書かなかった。友達になりたかった同級生とも、それっきりだ。いまは名前も思い出せない。
「いま急に思い出したんですけど」
瀬川はポテトの先っぽにナゲットのバーベキューソースをべっとりつけた。
「おれ、小学生の時、イトコのマンガを読んだんですよ。恋っていう文字が出てきたんだけど、ふりがながなくて、俺は「へん」って読んで、めちゃくちゃ笑われました」
「少女マンガ読むの?」
「いや、めったに。あのときもパラパラめくって、なんだか面白くなさそうだと思ったんですよね。モンスター出てこないし、戦ってないし」
ぼくは思わず笑った。
「小学生男子ってそうだよな。女子はなんていうか、大人だけどさ」
「そういえばおれ、高二になるまで、自分ができないことってないような気がしてたんですよ」
「高二?」ぼくはまた笑った。
「それ遅くないか? もっと早く何かに挫折するだろ」
「あ、先生はもっと早かったんですか?」
「中学生の時、バスケ選手になれないと思って絶望したことがあるよ」
「バスケ?」
「NBAが好きだったんだ。トレーディングカードを集めていた。小学生の時は他より背が高かったから他の子どもよりシュートも入ったしね。でも中学から背は追い抜かれたし、部活に入っても思ったようにぜんぜんできないしで、挫折」
「うわあ、そんなことがあるんだ」
「そりゃあるだろう」
バスケが好きだったのと「彼」が気になっていたことは、関係があるのだろうか。
ぼくが彼を好きだったとしても、彼には関係がないことだった。
「先生」
瀬川がぼくをちらっとみて、目を伏せて、またみた。
「俺は今日、つきあうって、単に友達になるとかそういう話じゃないですってことを、ちゃんといいたかったんです」
「ごめん。やっぱりよくわからない。瀬川君が男だからじゃない」
「俺が嫌いってわけじゃないんですよね?」
「嫌いなんて、そんなことない。むしろ──」
ぼくは続きの言葉を飲みこむ。好きという単語はこんな風に使っていいんだろうか。
きみがぼくを好きだとしても、ぼくには関係ないかもしれない。
みんなが誰かを好きになったり、嫌いになったりして、恋をして家族を持つとしても、ぼくは一人きりで生きたって、いいのかもしれない。
黙ってしまったぼくに瀬川がたたみかけるようにいった。
「わからないっていうのなら、わかるようになるまで、俺につきあって──いろいろやっても、いいと思います」
ぼくはほとんど自動的に聞き返した。
「いろいろってどんな」
瀬川はきょとんとした。
「えっと、ハンバーガー食べるのにつきあうとか」
「それなら今やってるけど」
「もっといろいろです」
瀬川はまじめな表情でいった。もっといろいろ。そのいろいろには何があるんだろう。
これまで生きてきたあいだに、もっと誰かに恋をするべきだった。突然そんな言葉が頭にうかび、ぼくは自分自身の気持ちがわからなくなる。いや、もともとわかっていたことなどないのかもしれない。ぼくは瀬川のように、誰かに好きだといったことがない。
「うん、まあ……わかった。いいよ」
「ほんとに?」
「ほんとにって……嘘のほうがいいのか」
「いいえ! やった!」
瀬川は白い歯をみせて笑った。彼の笑顔をみるのは好きだった。以前ハンバーガー屋で話した時もそう思ったのだ。
これは予定外の出来事だ。船は、行くつもりのなかった土地へ運ばれてしまった。ぼくは途惑いながらチキンナゲットをかじる。バーベキューソースは甘酸っぱかった。
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