290人が本棚に入れています
本棚に追加
大学生・新入生編 3.恋の閾
駅を出ると目の前に五階建てのスーパーがある。スーパーといっても、一階の片隅にドーナツチェーン、四階には家電屋、五階には書店がある。スーパーの隣の建物にはラーメン屋、焼肉屋、大小の居酒屋、カラオケそしてコンビニが入っている。サークルの新歓のとき、新入生たちが吸いこまれていく場所だ。
山と畑と森しかなかったこの地域に、電車が通り、周辺に団地や建売住宅がたくさん建ったのは半世紀近く前のことだ。周辺には葛に覆われた空き地が広がった。やがてマンションが空き地を埋め、線路の向こう側に都心から大学が移転する。そのときから数えても、もう三十年は経つだろう。
大学の敷地は細長く、一方の端を占めるグラウンドの奥には自然林が残されている。狸や猪が棲んでいるという噂で、野生動物に気をつけるよう看板が立っている。敷地の中央あたり、留学生の寮や図書館、サークル棟の近くには池がある。晴れた日の芝生には学生の他に猫もすわる。
猫はぼくが知るだけでも三匹はいた。よく慣れていて、学生が撫でても平気な猫もいるし、すぐに逃げていく猫もいる。大学に入って最初の春、彼らがキャンパスを悠然と歩いているのみるたびにぼくはとてもほっとしたものだ。もっとも誰が彼らに餌をやっているのか、どこで眠っているのかは知らないままだ。
ぼくが卒業して何年たっても、大学の猫は当時と同じように悠然とキャンパスを歩いている。ぼくは、猫をみつけて嬉しそうに笑ったり、隣の学生をつついて猫がいる、と囁く学生をみつける。みんな新入生だ。
今は街なかに新人があふれる季節だ。キャンパスの新入生もぼくの目にはみんなピカピカ輝いている。まだこの空間に慣れていなくて、どこになにがあるのかもわからなくて、好奇心でいっぱいだ。シニカルに、自分は期待なんかしていない、というふりをしている学生もいる──でも何年も大学にいた人間には、そんなふりだってわかってしまう。
ぼくは彼らの目にどんな風にみえているのだろう。学部の先輩か、院生か。大学には年齢不詳の輩が多く、真偽のさだかでない伝説もあれこれある。「構内で生活している十五年生」の伝説などがそうだ。正式には所属していないのに研究室や院生室に出入りする人間もいる。
いまのぼくはまさしくそんな立場だ。非公式に指導してもらっている先生に会うために、いまだに時々ここへやってくる。今日のように学科の新歓に誘われて顔を出すこともある。新入生たちはぼくを院生のひとりだと勘違いするかもしれない。ぼくも以前、そうだったから。
大学の門のこちら側には向こう側とちがう空気が流れている。向こう側とはちがう種類の競争や自由や束縛がある。でもぼくがこれを実感するようになったのは、比較的最近のことだ。
「新歓って、五号棟の中ですか?」
ぼくの隣で瀬川がたずねた。混みあっているわけでもないのに、なぜか彼は芝生とタイルが敷かれた道の境目を歩いている。
どうして瀬川がここにいるのか、という答えは簡単、彼はこの大学のピカピカの一年生だから。もうひとつ理由をあげるなら、四月に入る少し前から、ぼくは彼とほぼ毎日、スマホで──メッセージや通話で──話をしているから。
「うん。五号棟の五階」
瀬川は図書館の向こうに目をやる。
「五号棟って、おれの学科の建物からはけっこう距離ありますよね」
「二年までは語学とか教養とか共通の講義が多いから、あっちの方にもけっこう行くんじゃないかな」
「まだぜんぜん教室がどこにあるかわかってないっす」
瀬川はぼくを見下ろして鼻をかく。ピカピカの一年生の顔だ。
「そういえば昨日先生にきいた頭脳パン、みつけました。生協で」
「食べた?」
「小腹が空いてたんで、すぐ食べましたけど」
「どうだった?」
「味はふつうでした」
「だからそういったろ」
四月になって会うのはこれがはじめてなのに、あまりそんな感じがしない。昨夜おそく、布団に入ったあとも瀬川と話をしていたから、顔をあわせての会話にもその続きが入ってくる。きのう電話を切るまぎわに、明日は出身学科の院の新歓に行くといったら、瀬川はじゃあ、大学で会いましょう、と自然にいった。
おかげでいまこうして並んでキャンパスを歩いているのだが、ぼくはすこし緊張している。ピカピカの新入生が連れ立ってうろうろしている場所で、同じくピカピカの瀬川がぼくと並んでいていいのか。
(いいけど時間、大丈夫か? 講義とかバイトとか……用事かぶってない?)
昨夜、ぼくは思わず聞き返したものだ。
(サークル活動はどうするんだ? 大学は四月のあいだに知りあい増やしておかないと、いろいろ乗り遅れるぞ)
(あ、そういうの、大丈夫なんで)
瀬川はあっけらかんとした声でいった。
(それに、おれたち、つきあってますよね?)
(う、うん…?)
ぼくはあいまいに返事をしてしまう。そう、ぼくと瀬川はそういうことになっている──といっても、いまはスマホで毎日他愛もない話──ゲームとか、SNSで話題になったこととか──をしているだけで、それ以上のことは何もしていない。
(おれ、先生のなかで暮らしているみたいな感じになりたい)
瀬川はぼくの返事をどう受け取ったのか、突然そういった。ぼくは一瞬、何をいわれたのか理解できない。
(え?)
(おれ、すぐ先生のことを考えてしまうんです。金魚とか文鳥になって、先生の時間の中を泳いだり飛んだりしてたい)
(……なにいってるんだ)
スマホから瀬川の笑い声が響き、つられてぼくも笑ってしまう。瀬川の声はピンポン玉みたいに軽くて心地よかった。
こんなふうにしょっちゅう話すようになってから、彼とぼくのあいだにある境界はどんどん薄くなっているような気がする。それともこれは、今が春まっさかりだからなのか。
桜が咲く春は、理由もなく心がうきたつ季節だ。
「五号館って、こっちじゃないんですか?」
建物のあいだの細い道をいこうとしたぼくに、瀬川がたずねる。
「いいんだ。こっちからも行ける」
「抜け道?」
広いキャンパスには全員が知っているとはかぎらない道もある。図書館と留学生センターの裏の林に接近した細い道を進むうちにぼくら以外の人影はまばらになり、語学センターの横の、一見行き止まりにみえる通路にはもう誰も歩いていない。怪訝な表情の瀬川をよそにぼくはどんどん歩いていく。つきあたりまでいってはじめて、四角いトンネルのような通路がみえる。
「ゲームみたいですね」と瀬川が感心した。トンネルの先は四角く光が切り取られている。
「この道が好きなんだ」とぼくはいう。
通路が狭かったせいだろうか。並んで歩いているとき、ぼくは急に瀬川の体格を意識した。この道にはぼくと瀬川しかいないというのに、さっきとはちがう種類の緊張がやってくる。無視してぼくはずんずん歩く。トンネルを抜けたところはふたつの講義棟に挟まれた空き地だ。桜の木が二本、ねじれた枝をさしのべている。もう花はほとんど散っていた。
「秘密の通路って感じだ」
そう瀬川がいうので、ぼくは自分の手柄のように「桜が満開だともっと穴場感がある」と解説を付け加えた。
「ここの五階ですか?」
瀬川が五号館の窓をさしていう。
「そう。あそこが院生室」
「おれは学科がちがうから、あそこに行くことはないんですよね」
口調がひどく寂しそうにきこえた、ぼくはあわてていった。
「今日だけじゃなくて、ぼくは大学には時々来るから、そのときは──」
最後まで言い終わらないうちに瀬川の手が伸びて、ぼくの手をにぎった。ぼくはハッとして──でも、手をにぎられたままでいた。頭に何か落ちてきた感触があった。ぼくの手を握っていた瀬川の手がするりと離れ、ぼくの髪に触れた。
「花びらです」
瀬川は薄いピンクのかけらを地面に落とした。
「先生、今日も夜、メッセしていいですか?」
「いいよ」
「新歓、どんな感じだったか教えてください」
「うん」
ぼくはうなずく。瀬川とぼくのあいだの境界がまたすこし、薄くなる。
最初のコメントを投稿しよう!