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社会人・年中行事編 6月・理由
何かをはじめたりやめたりする理由はどうでもいいものであればあるほどいい。コンビーフの缶をうまくあけられたとか、雨が降っているとか。
瀬川がぼくのとなりでキコキコとコンビーフの缶をあけている。最近コンビーフの缶は新しいデザインに変わり、小さなネジまわしのような金具で切り口を巻き取らなくても良くなった──と話に聞いているのだが、近くのスーパーの棚で売られているコンビーフ缶はまだ以前のままで、ぼくはあけるのが苦手だ。そう話したら瀬川が「じゃ、おれやります」といって、キコキコやっているのである。
外は雨。ガラスの向こうの街路樹が真っ白にみえるほどの雨だ。梅雨入りは昨日だったか、その前だったか。ぼくは突っ立ったまま瀬川の太い指がコンビーフ缶の金具を扱うのをみつめていた。器用不器用に指の太さや長さは関係ないらしい。瀬川はぼくよりもずっと器用、というか、細かいものの扱いに慣れている。それに……。
「先生?」
瀬川に呼ばれてぼくの思考は中断した。
「開きましたよ」
「うん、ありがとう」
「何作るんですか?」
「キャベツと炒めて塩焼きそばの具にする」
「キャベツ、切りますか?」
瀬川はぼくの返事も待たずに冷蔵庫からキャベツを取り出している。彼は上の部屋に住んでいるのだが、近頃土日はいつもここにいる。もちろんぼくがいるときだけだが、広くもない台所に並んでいると、まるで一緒にくらしているような錯覚がおそってきて、おかしな気分になる。いや、おかしな気分になるのは雨のせいかもしれないし、まえの季節に応募した助成に落ちたせいかもしれない。
僕はまな板の上にコンビーフをあけると賽の目に切った。さっき瀬川がくるくる回していた金具は缶の側面に縛りつけられたようにくっついている。金具の四角い頭の部分だけなら、柱時計のゼンマイを巻く鍵に似ていなくもない。
この家には鍵を失くした柱時計がひとつある。昔の住人が使っていたもので、鍵はぼくがここに住みはじめるずっと前になくなっていた。
ぼくはどうして時計のことなんか考えているんだろう? 時計──時──ああ、時の記念日か。
六月十日は三日前で、落選通知が来たのも三日前。時の記念日とは実際のところ何を記念しているのだろう。
もう、やめてしまえってことなんじゃないだろうか。実際、やめたっていいんじゃないかな。大学にポストがなくても働く場所はあって……。
「先生、おれ、あとやりますから」
瀬川がずいっと身を乗り出し、まな板のまえからぼくを押しのけるようとする。ぼくは反射的に包丁を流し台の奥へおしやり、コンビーフでねとねとした指をふいた。
「瀬川君、いいよ」
「先生、ぼうっとしてますよ」
「してないよ」
「してますって」
そんな声が聞こえたとたん突然ぐいっと肩をつかまれて、目の前が暗くなった──というか、瀬川の顔がぼくの視界を覆って、唇にふやっとしたものが当たった。
むむむ……焦ったぼくの口に瀬川の口がきゅっと吸いついた。舐められてひるんだところをこじあけるようにして舌が入ってくる。キッチンに漂うコンビーフとキャベツの匂いに瀬川の匂いがかぶさる。
「……瀬川君……あのな……」
「ほら、ぼうっとしてるでしょ」
瀬川の指はまだぼくの耳のうしろをなぞり、髪を撫でている。
「ぼうっとなんかしてないぞ」
「ほんとに?」
「それよりコンビーフ……」
「先生、おれ、もりあがってきちゃった」
瀬川の手がまたぼくの肩に回る。
「ね、だめですか?」
体を押しつけられる。たしかにもりあがっている。
「コンビーフが先だ」
「先生もけっこうもりあがってますよね?」
瀬川の手がいらないところをさわる。当たっているから困る。瀬川の指は器用だ。ぼくは彼がコンビーフの缶をあけていた時、自分の頭をよぎりかけた考えを思い出す。瀬川の指は器用なので、そんなふうに動くと……。
「ばかもの、なにも今はじめなくたっていいだろう」
「でも先生、あんなに雨が降ってるし、おれはコンビーフの缶を開けたの、これが生まれて初めてなんで」
そんなの理由になるか。まな板のうえにはコンビーフ、ザルのなかにはちぎったキャベツ。窓の外では雨が激しく地面をたたいている。
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