眠り姫

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 ただいま、というルネの声に主人はちらりと振り返った。おかえりと小さく呟くと、また手元の本に視線を戻す。  ルネは主人の隣に割り込み、両膝を抱えて座った。頬杖をつき、本を読む主人の横顔をぼんやりと見つめる。  ――蝋燭の灯りに浮かび上がる蒼白い輪郭。はじめて出会ったあの夜と、何ひとつ変わらない。  この部屋の中にいるといつも、時が止まっているような錯覚を起こした。自分は順調に歳をとり、背丈も伸び、顔立ちもずいぶん大人びたというのに。  たったの数年で街の姿も変わった。道路を走る自動車の数も増え、つぎつぎに新しい商店やカフェができる。人々の服装も動きやすい簡素なものへと変わりつつあった。  急速に流れ去る時間の中、主人だけが永遠に、ひとつの場所に留まり続けている。 「……ねえ、オーギュ。スイスで暮らしたことってある?」  唐突に切り出すと、主人は静かに顔を上げた。どうして突然そんなことを言い出すのか、勘繰(かんぐ)るような視線をルネに向ける。 「短期間であれば、何度か」 「ジュネーヴは?」 「あそこはフランス語が通じるから楽だ。スイスの中では都会だよ。レマン湖を見渡す美しい街だ。パリに比べれば田舎だが」
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