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「ジュネーヴ大学に、フェルディナン・ド・ソシュールっていう比較言語学が専門の偉い先生がいてね、こっちに来て勉強しないかって」
「ほう、それは大層なことだな。お前は本当に優秀だよ」
その言葉には特に裏もなく、素直に感心しているような口ぶりだった。
主人はふたたび視線を落とし、本のページを捲った。つぎの言葉を待ってみたが、どうやら主人は話を続ける気がないらしい。
ルネはぐっと腹の底に力を入れ、自ら本題に切り込んだ。
「……そろそろオーギュも、他の街に移動しなきゃならないんだろ?」
主人の動きがぴたりと止まった。
彫刻のような顔が静かにこちらを向く。無言のうちに、ふたりの視線が交差した。ルネの背筋に冷や汗がすっと流れる。
この奇妙な沈黙は、心臓に悪すぎる。
「……移動は、しばらくしないつもりだ」
それだけ答え、主人は本に視線を戻した。その途端、心の中につぎつぎ不安が湧き起こる。
しばらく、ってどれくらい? しばらく、が終わったら移動するんだろ? どこに行くかもう決めているの?
もちろん俺のことも連れて行ってくれるんだよね?
聞きたいことは山ほどあるのに、どれひとつ言葉として出てこない。
「マリー=アンヌの体調が悪いんだ」
「えっ……?」
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