眠り姫

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 思いもよらぬ話に、頭の中で渦を巻いていたたくさんの不安が一瞬のうちにかき消えた。 「本当なの? だって最後に会ったときには、全然――」  マリー=アンヌと最後に会ったのは夏の終わり、ルネのエコール・ノルマル準備級への進級を祝う席でのことだった。  マリー=アンヌはとても喜んでくれた。  ルネがどんどん立派になってくれて、これほど嬉しいことはない、私も頑張って長生きしなきゃねと、まるで自分に言い聞かせるよう繰り返した。  たしかに初めて会った頃に比べれば、ひと回り痩せた印象はあった。だが常に健康に気を遣い、これまで一度も大きな病気をしなかったのだ。  そのマリー=アンヌが、まさか。 「夏の疲れが出たのかもしれない。マリー=アンヌもいい歳だ。いつかはこういう時が来るとは思っていたが――」  感情を押し殺したせいか、主人の声は普段よりさらに平坦だった。  夜の海のように(よど)んだ瞳。隠しきれない絶望が、その暗い波間に浮かぶ。 「そんなに――悪いの?」  冬のはじめの乾いた風が、首筋を吹き抜けるような感覚がした。その寒々しい風が手足に(まと)わりつき、ルネの身体を凍らせていく。  主人はその問いに返事を返さなかった。ただ視線を落としたまま、こうルネに言った。 「……こんどの休みにでも、様子を見に行ってやってくれ」  だがルネは返事をしなかった。そしてつぎの休みが来ても、ルネはマリー=アンヌに会いに行かなかった。
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