眠り姫

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 いつもお喋りなアンリが、ハンドルを握りながら何も喋らなかった。  秋の夕暮れに、屋根も壁もない車に乗るのは少し肌寒い。シャン=ゼリゼを一直線に走り抜け、凱旋門を通り過ぎると唐突にアンリがこう言った。 「マリー=アンヌは、俺がをした唯一の女性だ」  ルネはコートの襟をかき合わせながら、アンリの横顔に目をやった。そのときのことを思い出しているのか、口元に優しい笑みが浮かんでいた。 「……4歳か、5歳くらいだったかな。初恋だったんだよ。マリー=アンヌは、もう60近かったと思う。それでも、周りにいたどの女性よりも綺麗だったんだ。いつも優しい甘い匂いがしてさ、まるで春の女神みたいだった。お堅いうちの兄貴たちさえ、マリー=アンヌの前ではだらしなく鼻の下を伸ばす。あんなに綺麗で、頭が良くて、茶目っ気があって、魅力的な女性はめったにいない。だからマリー=アンヌにお願いしたんだよ。俺が大人になるまで誰の物にもならないで、他の奴じゃなくて必ず俺と結婚してね、って」 「……アンリらしいね」  いまのアンリをそのまま小さくしたような、少し生意気な子どもが目に浮かんだ。 「……それで、マリー=アンヌは何て?」
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