最後の遊泳

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 涙に震えるルネの背中を、主人の腕が優しく抱いた。 「大きくなったな、ルネ」  懐かしい声。変わらずに冷たい肌。涙が溢れて止まらない。 「――会いたかった。あれからずっと下水道に隠れていたの? もっと遠くに行ったのかと思っていたのに」  主人は答えに躊躇(ためら)い、しばらく口を閉ざした。だがやがて、観念したようにとつとつと語り出した。 「……あの日大切な女性を失い、化け物のような行いを続けていく意味を失った。これ以上誰の血も吸いたくなくて地下に降りた。それから何度もこの世から消えてしまおうと思ったんだ。こんな姿になり、惨めな思いまでして、この世界にしがみつくなんて馬鹿げている。――それなのに、ただひとつだけ望んだ願いを諦めることができなかった」 「願い、って――?」  主人はルネにこう告げた。 「この世で、誰かひとりだけでも幸せにしたかった」  長い指が伸び、ルネの金の髪を優しく梳いた――昔と何ひとつ変わらないやり方で。 「――こんな私を必要としてくれるあの女性のために、長いあいだこの世に留まっていた。もし私が消えれば彼女は別の男と出会い、幸せな家庭を築けたかもしれないのに。彼女の優しさから離れられなかったのは私の方だ。それともいっそ彼女をヴァンピールにした方が幸せにしてやれたのだろうか。ずっとその答えが見つからなかった。いまでもよくわからないんだ」  哀しみと後悔の混じる声が、霧雨のように耳に染み込んでいく。まさか主人がマリー=アンヌのことをそんなふうに悩んでいたなんて想像さえしなかった。  あのとき、マリー=アンヌをヴァンパイアにしておけばよかっただろ、と口汚く責めてしまったことを思い出し、ぎゅっと胸が痛くなる。
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