最後の遊泳

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「……マリー=アンヌは、自分の人生を後悔していなかったと思うよ。オーギュを愛することができて幸せだったと思う」  ルネは顔を上げ、仮面の向こうの蒼い瞳に力強くそう言った。 「……そうだったらいいな」  白い仮面の下から、いまにも泣き出しそうな吐息が落ちた。 「自分が生きるために、たくさんの人を殺した。化け物のようなやり方で、人の生き血を吸って生きてきた。その償いには到底ならないだろうが、誰かひとりだけでも幸せにすることができれば、これまで卑しく永らえてきたことに意味を見出せる気がした。だからあの夜、お前を引き取った。不幸に耐えてきたこの子に幸せな人生を歩ませてやろうと思った――身勝手な理屈だとわかっているが」  ルネは慌てて涙を拭い、主人を安心させようと笑みを浮かべた。 「そういうことなら、オーギュの願いは俺がとっくに叶えているよ。俺はオーギュのお陰でちゃんと幸せを掴んだんだから」  ルネは誇らしげに胸を張った。 「俺さ、ふたりの孤児の父親になったんだよ。女の子はマリー=アンヌ、男の子の方はオーギュストって呼んでるんだ。オーギュストはね、オーギュと同じ黒髪でオーギュみたいに絵が上手なんだよ。マリー=アンヌは金髪で、天使みたいに可愛いんだ。だからもう、ヴァンピールにしてほしいなんて無理なお願いはしないよ。ずっとそばにいるって、あの子たちと約束したから」  すると主人は、胸元から小さな紙切れを取り出した。  主人が取り出したものは、ルネがパリの下水道中に残した手紙の一枚だった。 「今日、これを見つけたんだ。お前が幸せに暮らしていると知って、どうしてもお前に会いたくなった。ルネ、私にとって今日ほど幸せな日はないよ。お前は、与えられるべきだった物を何ひとつ持たずにこの世界に生まれ、自分の力で幸せを勝ち取ったんだ。お前の強さと賢さと優しさを、私は心から誇りに思うよ」  仮面の向こうで、蒼の瞳が優しく微笑む。その表情を見て、ルネは子どもの頃に戻ったように主人の腕を掴んだ。 「ねえ、これからは一緒に暮らせるよね? 子どもたちには、俺の主人がヴァンピールだってちゃんと話をしてあるんだ。アンリもここで暮らしているんだけど、オーギュがヴァンピールだってとっくのむかしに打ち明けてある。それを知った上で、ずっと一緒にオーギュを探してくれていたんだよ。だからオーギュも安心して、俺たちとこの家で――」  だが、主人は静かに首を振った。 「今日はお前に、最後お願いをしようと思って来たんだ」 「最後の、お願いって――?」  思いもよらぬ反応に、ルネの声がかすかに震える。 「一緒に、朝日を見たいんだ」  主人が何を言っているのか、一瞬意味がわからなかった。だがその真意を呑み込んだ途端、ルネの背筋に恐怖が駆け上る。 「だって、太陽を見たら、オーギュは――!」  ショックのあまり声を失うルネに、主人は凪いだ海のような目を向けた。 「ずっと眠りたいと思っていた。私の存在する先には、果てのない暗闇が続いている。その永遠の闇に別れを告げたいんだ。先に空に昇った大切な者たちと、月と星々が、私が来るのをずっと待っているから」
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