最後の遊泳

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 主人の声が形をなさないまま、耳の奥を通り過ぎていった。  目の前に真っ暗な帳が降りていく。それを振り払うように、ルネは頭を振った。 「ルネ、お願いだ。こんなことはお前にしか頼めない。私がこの世界から消えていくときに、お前にそばにいて欲しいんだ。私の願いが叶ったいま、もうこの世に心残りはない。残酷なことを言っているのはよくわかっている。だが、どうか聞き届けてくれないか」  蒼ざめるルネの頬を、主人の掌が優しく包む。 「――嫌だよ! どうしてそんな……」  声を上げた瞬間、ぼたぼたと涙がこぼれ落ちた。主人は幼な子を宥めるように、俯くルネの顔を覗き込んだ。 「ルネ、そんなに悲しまないでくれ。お前が幸せを掴んだと知って、今日ほど幸せな日はないよ。すべての罪を赦されたような穏やかな気持ちなんだ。この幸福な気持ちのまま、神のもとへ――愛する者たちのもとへ行きたいんだよ」 「何でそんな……勝手すぎるよ、オーギュは……だってようやく会えたのに……俺は」  泣きじゃくるルネを主人は胸に抱き寄せた。嗚咽に震える背中を、とんとんと優しく叩きながら。  その音が、子守唄のように、心臓の鼓動のように、胸の奥に悲しく響く。
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