最後の遊泳

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 ――お願いだ、ルネ。これは悲しむようなことじゃない。私はとても幸せなんだ。ずっと陽の光を浴びたかった。目の(くら)むような光を、肌に落ちる熱を、遠い昔に失った半身のように、永いあいだずっと恋焦がれていた。最後にそれを、お前と一緒に見たいんだ。  ぽつりぽつりと耳元に落ちる主人の声。懐かしいその声が、繰り返し自分の名を呼ぶ。  ――ルネ。ルネ。どうか悲しまず、祝福してくれないか。私は心から幸福なんだよ。きっとあの女性(ひと)も天国で祝福してくれている。お前の幸せと、私の幸せを。  震える胸に夜風を吸い、その満ち足りた声に心を澄ませた。  永遠に、そばにいられたらいいと思っていた。その孤独を、自分が埋めてやれると思っていた。  果てなく続く暗闇の世界。それが伴う果てのない苦しみをわかろうともせずに、主人を永遠に夜の淵で生かそうと思っていた。  でも、主人が望んでいたのは、そういうことではなかったのかもしれない。  目元を拭い、静かに顔を上げた。凪いだ海のような瞳が、ルネの心を奮い立たせる。  それが主人に永久(とわ)の安らぎを約束することになるのなら――ルネは思う。  その最後の願いを叶えてやれるのが自分で、本当によかったと。 「――じゃあ俺からも、お願いしてもいい?」  尋ねると、主人は静かに頷いた。 「俺の血を吸ってくれる? それで元の姿に戻るんだろ? そしたらまたあの舞踏会の夜みたいに、この街の一番高いところまで飛びたいんだ。この街のてっぺんで、一緒に朝を迎えよう」  だがその願いに、主人はしばし言葉を失った。戸惑いが蒼い瞳に色濃く滲む。
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