最後の遊泳

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「ねえ、オーギュ。俺と離れるのがちょっぴり惜しくなったでしょう?」  尋ねると、主人は照れ臭そうに笑い、鼻を指でこすった。 「そうだな、少し寂しいよ」 「俺と離れたら、どうせまた上手く眠れないんじゃない?」 「大丈夫だ。あっちに行けばマリー=アンヌが添い寝をしてくれる」  最低だな、とルネは笑いながら主人の腹に拳を入れる。 「オーギュがこんなに寂しがり屋だなんて知らなかった。もっと早く素直になれば、俺だってもっと甘やかしてやったのに」  すると主人は夜風のように近づき、ルネの耳元に口を寄せた。 「じゃあ遠慮なく、甘えさせてもらおうか」  主人の両腕がルネを引き寄せ、胸に強く抱きしめる。漆黒の外套が、ふたたびふわりと風に舞う。  ムーラン・ルージュの赤い風車を飛び越え、モンマルトルの丘の上まで飛んだ。  爽やかな秋の夜の底に、パリの街並みが遥か彼方まで広がっている。  この街には、これまで生きてきた人生のすべてが詰まっている。暗く辛い記憶も、甘く優しい温もりも、自分が歩いてきた時間(とき)のすべてが。 「この街を愛していた?」 「ああ。光も闇も、すべてを愛していたよ」  身を寄せ合い、その美しい街並みを眺める。遠くにエッフェル塔の黒い輪郭が、街を見守るように佇んでいた。 「俺も、愛せるようになった。オーギュに出会ってから」  そして主人の肩に寄りかかる。 「あんたは俺の、人生のすべてだよ」  主人は声もなく笑い、小さく肩を震わせた。 「ずいぶんと歯の浮くような台詞を言うじゃないか」 「何だって言うよ。最後の晩だからね」
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