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静かに夜が流れていく。空の瞳のような月が西へと傾き、少しずつ闇が力を弱めていく。
そしてふたりはエッフェル塔の最上階に足を下ろした。下から吹き上げる風に、主人のオペラ・ケープが丸く膨らむ。
懐かしい。いつかここから、星空を映したような街を見下ろした。
しばらく無言のまま、ふたりはそこに佇んでいた。
パリの東の空が、徐々に白みはじめる。にわかに心臓が早鐘を打ちはじめた。
「……ねえ、オーギュ。やっぱり――」
そう言いかけたルネに、主人は静かに首を振った。
夜明けが近い。
漆黒の外套に包まれ、この幸福な国にやって来た。
暴力と絶望の日々を遠く離れ、
美しい、夢幻の国を浮遊していたのだ。
光を失った左の目が、優しい闇の中だけは息を吹き返し、
いつもありありと瞼の裏に映し出した。
蒼白い横顔。黒い睫毛。サファイアの瞳。長い石膏の指を。
自分の名を呼ぶその声。
ときに優しく、ときに窘めるように。
深いくちづけを交わすように。
耳の奥に根を下ろし、何度でも何度でも、優しく抱きしめてくれる。
ねえ、オーギュ。俺が天に向かうときには、必ず迎えにきてね。
ああ、約束するよ。必ずだ。
ずっと空から見守っていて。ずっと俺を見ていて。
ああ、誓うよ。ずっとお前を見ている。
愛していると、言って。
愛しているよ、ルネ。お前は私がこの世界で勝ち得た、最上のものだ。
そのとき、パリの東の果てに光が射した。
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