歓びの歌

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 夜の八時前、黒塗りのブガッティが玄関前に停まった。  アンリは現在、シャン=ゼリゼ北の豪華なアパルトマンにひとりで暮らしている。先日ついに三番目の妻が出て行ってしまったので、その家は引き払い、また大家としてこの屋敷で一緒に暮らそうかなんて言いはじめる始末だ。  この土地と屋敷を買い取りたいという話は、これまで何度もアンリに持ちかけたのだが、どうにもこうにもアンリが首を縦に振らない。家主じゃないと大きな顔でこの家に出入りできなくなる、というのがアンリの言い分なのだが、家主でなくても大きな顔をすることは目に見えている。おそらくアンリも、たくさんの思い出が詰まったこの家を手放すことが惜しいのだろう。  アンリはまるで我が家に帰宅したかのように、身体に馴染んだ動作で玄関を通り抜けた。窓辺でロッキングチェアにもたれドイツ語の論文を読んでいたルネを見つけると、軽く片手を上げる。 「よう、」  からかうようにルネをそう呼んだ。  ルネはパリ言語学学会において印欧祖語の再建に関する画期的な学術論文をいくつか発表し、学者としての最高職であるコレージュ・ド・フランスの正教授の座を得た。またその功績を認められ、先日異例の早さで、母校リセ・ルイ=ル=グランの学長にも就任した。 「よかったのかい? 途中で抜けたらシャネルが機嫌を損ねるんじゃないか?」  そうアンリに尋ねると、相変わらずの白い歯を見せてにやりと笑う。 「仕事より、〈家族〉が優先だろ」
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