歓びの歌

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 今日のアンリは濃紺のダブルのスーツに臙脂色のネクタイを締め、グレーのホンブルグ(中央にへこみがあるフェルト帽)を被っている。若い頃を遥かに上回る大物の貫禄が全身から滲み出ており、最近生え際に混じりはじめたグレイの髪が、その威厳をなおのこと引き立てていた。 「歩いて行くか? どうせ混むから車だと面倒だろ」  ルネは最近使いはじめた老眼鏡をサイドテーブルに置き、弾みをつけて立ち上がった。 「そうだね。散歩にはちょうどいい距離だし」  ふたりは家を出て、セーヌ川沿いを歩きはじめた。  七月のパリは夜の八時を回っても日が沈まない。だが西の空に傾きはじめた太陽は、石灰岩で造られた白の街並みを淡い茜色に染めはじめていた。  セーヌの河面を渡る夕暮れの風に、もうそれほどの生臭さはなかった。――いや、本当はあの頃のままなのかもしれない。それもわからなくなるほど、この土地の空気に馴染んでしまっている。 「今日はマリー=アンヌもソロで歌うんだよな?」 「そうだよ。リュミエールの子たちは、マリー=アンヌと同じ舞台で歌えるんだって大興奮だ。マリー=アンヌもアンリが見に来てくれるとわかって気合十分だよ」  アンリは目尻の皺を深め、満足げに笑う。 「俺たちのマリー=アンヌが、いつの間にかみんなの歌姫になるなんてな。プリマドンナになって世界中の金持ちから求婚が舞い込む前に、やっぱり俺が先に嫁さんにもらおうかな」 「ちょっと、冗談でもやめてくれよ! マリー=アンヌが本気にするだろ!」  ルネの慌てぶりに、アンリは白い歯を覗かせ、愉快な笑い声を上げた。
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