歓びの歌

13/17

108人が本棚に入れています
本棚に追加
/257ページ
「マリー=アンヌは本当に美人になったな。よし、ついに今夜念願のプロポーズを――」 「おい! その前に、父親を倒してからいけよ!」  ふたりが睨み合っていると、背の高い青年がぺこぺこと頭を下げながら、人混みを掻き分けこちらに向かってくる。  無造作に結んだ長い黒髪。背中に背負った大きなリュック。カンバスを入れた袋を腕に抱え、その顔はよく日に焼けていた。 「――オーギュスト!」  ルネは小さく叫び、慌てて手招きをする。オーギュストは大きな身体を申し訳なさそうに縮めながらこちらに辿り着き、アンリと軽く掌を打ち合わせた。そしてようやくルネの隣の席につく。 「ごめん、道に迷った!」 「どうしたら迷うんだ! エッフェル塔なんて世界のどこからでも見えるだろ!」 「長年パリを離れていると、土地勘が狂うんだよ」  オーギュストは子どもの頃と変わらぬ笑顔で、屈託なく笑う。シャツから覗く筋肉質な腕は太陽の色を宿し、またひと回り逞しくなったように見えた。舞台上のマリー=アンヌもようやくやって来た兄の姿に気づいたようで、にやりとこちらに視線を送る。  こうして、一九二九年のフランス革命記念日を祝う野外コンサートが開幕した。  ベートーヴェン交響曲第九番第四楽章――『歓喜の歌』。  指揮者が大きくタクトを振り上げる。激流のようなオーケストラの前奏。陽の落ちたシャン・ド・マルスに鳴り響き、朗々としたバリトンがそれを引き継いだ。   Freude! (歓びよ!)   Freude! (歓びよ!)  子どもたちの透き通る歌声が、解き放たれた翼のように天へと舞い上がる。
/257ページ

最初のコメントを投稿しよう!

108人が本棚に入れています
本棚に追加