7人が本棚に入れています
本棚に追加
明日香は目を覚ました。二度と目覚める事のない眠りにつこうとした彼女にとって、それは幻以外の何物でもなかった。第一、ビルから飛び降りたというのに、電車に揺られて眠っているなんておかしい。
明日香は座席にもたれかかっていた上体を起こした。見たことのない車内には、自分以外誰もいない。白い密室に並んだ座席は黄色で、天井から吊り下げられている広告は皆無。ただ定期的に揺れる車両と共に、つり革がキシキシと音を立てるだけ。車内に取り付けられた、停車駅を表示する画面は白いまま。
窓の外は水色と緑色の二色のみで満たされ、青空の下で草原をただ走っているように見えた。
綺麗な電車の中で一人、明日香は立ち上がる。と、その動きを見ているかのように、車内アナウンスが響いた。
『この電車は、黄泉行きです。誰も降りる事は出来ませんので、精々無様に足掻いて下さい。少しは退屈凌ぎになるでしょう』
現実では絶対にあり得ない、合成音声の言葉に明日香はポカンと、口を開けることしか出来なかった。これが現実ではない、と言うことは分かっていたが、まさかこんな意味不明な状況に置かれるとは思いもしなかった。
女性の声を元にしたようなツギハギの声は、今なんと言ったのだろう。その半分も明日香には理解できなかった。「よみゆき」。とりあえず現状を踏まえた上で言葉の意味を推測する。「よみゆき」という言葉。間違いなく地獄を意味する、あの「黄泉」という字だろう。
自殺した者は必ず地獄に落ちると聞いていたが、まさか本当だったとは思いもしなかった。しかし明日香は神も信じていなければ、地獄の存在も信じていない、そんな少女であった。だから例え「地獄行き」の電車に乗っていたとしても、さして危機感は覚えないでいた。
“それ”の言葉を聞くまでは。
『「信じていない」そんな顔もなさるのですね、意外でした。てっきり貴方は、人形の如く表情を変えないとばかり。これは楽しみです』
「あんた、誰なの」
再び鳴り響いた車内アナウンスに明日香は警戒心を剥き出しにした。当然だろう。機械だと思っていたその声が、定型文ではないリアルタイムの情報を捉えた、明らかに人為的なものだったのだから。
緊張した硬い声に、アナウンスはクスクスと笑い声を漏らした。間違いない、相手は人間だ。それも少女一人をこんな場所に閉じ込めて楽しむ、とびきり気の狂った奴だ。
『失礼。名乗るのが遅れました事を、お詫び致しましょう。私はヒカリ。貴方に、自殺を後悔させる事を使命としたものです。以後お見知り置きを。あぁ、別にこんな丁寧に言葉を並べなくても、貴方は絶対、私を忘れることは出来ないのでしょうけれど』
一見物腰柔らかそうな言葉に、隠す気もない不穏な言葉が混ざる。名前が持つ印象とは、全く別方向の悪いイメージが瞬時に、明日香に植え付けられた。
どうにかして逃げ出さなければ、と思考を巡らせる。勿論、自ら命を潰そうとした明日香ではあるが、キチガイに嬲られて喜ぶような嗜好は、持ち合わせていない。パッと周囲を見回した明日香の意図を読み取ったのか、機械の声はまた嗤った。
『出口をお探しですか? 驚いた、記憶力は人並みだと思っていましたが、どうやら違うようですね。先ほど私が言った言葉を、もうお忘れですか?』
「降りられないなんて、私は信じない」
キッと睨みあげたその先で、スピーカーから笑い声がこぼれる。粗野で不快な笑い声ではない。上品で大人しく、美しい響きさえ持つ、けれど聞いた者を片っ端から不快にさせる笑い声だ。ヒカリはひとしきり嗤うと、ため息にも似た音を出して、明日香に優しく語りかける。
『愚かで無知な小娘に、一つ教えて差し上げましょう』
恋人に睦言でも囁くような声音で、ヒカリは言葉の続きを紡いだ。
『明日香、貴方はすぐに、そんなくだらない事はどうでもよくなる。いえ、そんな事を気にする余裕は、失われる』
明日香の視界の端で、黒い何かが蠢いた。それを認めた刹那、明日香は体を凍らせた。今の今まで憎しみを向けていた声の存在すら、今の彼女には関係ない。
ドンッと振り下ろされた、黒い液体に塗れた大きな手が車両を揺する。長い爪と、ぎらつく白の牙を持った生きた闇は、その血染めの目で明日香を捉えた。
『足掻いて下さい、明日香』
少女より巨大な死神が、その口に備えた鎌を見せて笑う。床に落ちた赤黒い液体は、気味の悪い粘り気を持って、不気味な水たまりを生み出した。明日香の足が辛うじて半歩退かれる。黒い瞳が、同色の殺戮者を見返した。
『足掻いて、私の退屈凌ぎになって下さいね』
表皮が溶け落ちた、巨躯の獣が明日香に踊りかかった。
バンッと荒々しくスライドさせた扉が、明日香が通り抜けた事を確認した瞬間、爆発するように四方へ砕け散る。乱れる呼吸の合間に、背後へと視線を向けた明日香の瞳は、数メートルの距離を空けて追いかけてくるその化け物の姿を見た。
狼のような、けれど狼とは明らかに違う部位を持つ、黒い巨体に白い牙を持った生き物。それは涎か血液か、どちらにしても良いものではない液体を撒き散らし、明日香を追跡してくる。
「な、なんなの! あの化け物は!」
息も絶え絶えに、明日香はやり場のない怒りと恐怖を吐き出す。その間も黒い怪物は距離を縮めようと、長い爪を備えた四肢で床を蹴りつけていく。
『思ったより床が汚れますね』
とは、この危機的状況を生み出したに違いない、ヒカリと名乗った声であった。彼女、または彼かもしれないが、その輩は必死に車両内を駆け抜ける少女など眼中に無いようで、ただ車体が汚れる事を嘆いているようであった。
汚れろ、いや、いっそ粉砕されてしまえ。と普段の明日香ならばそれくらいの悪態はついただろうが、今の彼女にそんな余裕はない。
心臓は早鐘を打ち続け、破裂してしまうのではないかと思われた。喉は熱く、そして強い痛みを訴える。咳き込む暇すらない明日香は危うげな呼吸を繰り返し、再び車両のドアを開けようと手を伸ばした。
その手が取っ手に触れる一瞬前に、ドアが轟音を立ててひしゃげた。舞い上がる粉塵と突然身を押した突風に、明日香は両腕で顔を庇う。そのままバランスを崩して後退し、尻餅をついた。その数センチ先に黒い柱が叩き落とされる。
「あ」
抉られた白亜の床から引き抜かれる太い腕。床は無残に抉り取られ、微かに動いた目が、空いた穴から高速で流れ去るレールを見た。こんな非現実的な状況なのに、そこだけは妙に現実味を帯びていて。パラパラと小さな破片が吸い込まれるようにして、車外へと消える。
ぽたり、ぽたりと生温かい液体が、頭の天辺に落とされねっとりと頭皮を撫でた。鼻をつくのは腐った肉の臭いと、血の香り。破壊された床に固定されてしまった視界の上から、白亜の幕がゆっくりとおりてくる。いや、幕などではない。これはギロチンの刃だ。明日香はただ震えることしか出来ず、やがて世界が黒一色に染められ、ガチンと歯が噛み合わさる音だけが響き、何も分からなくなった。
最初のコメントを投稿しよう!