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今度こそ己の人生は終幕を迎えた筈だ。けれど持ち上げた瞼の下から現れた瞳は、視界を埋める光を映し、明日香はまた意識を取り戻した。ただ飛び降りた時と違う点を挙げるとするなら、今度は床に無造作に転がされていることだろうか。
(何が起きたの)
そう問いかけようにも口は動かず、ただ空気が狭い空間を流れる音が聞こえるだけだった。あの化け物はいないようだ、と視線を巡らせる。その黒の視線の先には、手があった。手だけではない。それに続く胴体と足もある。だがそれには肝心の、頭部が欠けていた。
同じように食い殺された人のものだろうか、妙に冷めた思考が的外れな答えを出した。ここには、少なくともこの車両には、明日香しかいなかったのだから他の人間の死体が転がっているわけがない。ならば考えられる答えは二つ。明日香の死体があの化け物によってどこかに運ばれたか、転がっているのは自分の胴体か、そのどちらかだ。
『おや、お目覚めですか?』
ヒカリの声が静かな車内に響く。静か、と言っても相変わらず電車は走行中のようで、定期的な振動とレールを蹴る音が鳴り続けている。自分をこんな目に合わせた張本人に状況を聞くのは癪で、明日香は現状を確かめようにもその手段がなかった。
そんな明日香の心を見透かしているかのように、ヒカリはクスクスと小さな笑い声を漏らすと、『ご説明いたしましょう』と恭しく今の状況の説明をしだした。
『明日香、貴方の頭部はあの黒い生き物に丸呑みにされました。切断され、支えを失った貴方の体はそこに転がっていますよ。貴方が「化け物」と形容したあの生き物は、貴方の頭と体を貪り満足したようで、別の車両に移動しました。貴方ときたら、ろくな抵抗もせず大人しく頭から食べられるものですから、車両は貴方の首から噴き出した血液でドロドロです。後で綺麗にしてくださいね』
不満をこぼす合成音声に、明日香はぱちりと一度瞬いた。このとち狂った声は、なんと言っただろう。頭と体が貪られた、自分はここに存在しているというのに。
今度は明日香が嗤う番であった。桜色の唇からこぼれ出た笑い声に、ヒカリは何の反応も示さなかった。観察しているのか、それとも明日香が正気を失ったとでも思っているのか、スピーカーの向こうにいるのであろう人物の顔は見えないが、明日香は眉根を寄せてキッとスピーカーを視線だけで睨みつけた。
「うそつき」
掠れた声がヒカリにそう言った。どういうわけか大きな声は出せないが、それでも相手には聞こえたようで、心にもない言葉が返される。
『心外ですね。私、嘘は好きではありませんよ』
「わたしは、いま、いきてるじゃない」
『おや、そんな事でしたか。ではこちらをご覧ください』
明日香と少しばかりのやりとりの後、ヒカリがそう言って天井の一部を組み替えた。ガシャンガシャンと大きな音を立てて天井の一部がひっくり返り、内部に収納されたパンタグラフがギチギチと折りたたまって、黒い箱へと変わる。それは乱暴に車内へと落とされ、振動で微かに明日香の頭が浮いたような気がした。
『これは失礼。手が滑りました』
とはヒカリの言葉であるが、動いているのはあくまで奇妙な電車であり、手などあるわけがない。だとしたらやはり、遠隔操作か何かでこの電車を操っているのだろう。明日香は合成音声を使役する人物を思い描く。
明日香が思い描いたのはやはり、偏見かもしれないが太った中年の男性であった。というかそれ以外思いつかない。声は女性の者のようだが、声を変える道具でも使えば性別など詐称できるだろう。だとするとこの無駄に丁寧な言葉を使っているのは、その太った中年の男なのだろうか。そう思うと何とも言えないおかしさがこみ上げてきた。
『気は確かですか明日香』
そんな明日香の様子にヒカリははじめて、その身を案じるような言葉を吐いた。けれど純粋な心配ではないのだろう。彼女、または彼に言わせてみれば、楽しみが減るということに違いない。
「お気づかいどーも」
先ほどより出やすくなった声で、形だけの感謝を述べるとヒカリは『当然の事です』と返してきた。ふと首を巡らせてみると、先ほどまであった胴体がなくなっている。何処に行ったのかと探しかけたところで、ヒカリが天井からモニターを出した。そこに映るのは紛れもない、化け物から追われて逃げ惑う明日香だ。
「撮ってたのね」
苦虫を噛み潰し、ようやく自由に動くようになった手足を動かして上体を起こす。睨みあげた先ではさっきの自分が、ちょうど尻もちをついたところであった。改めて見てみると、本当にぎりぎりであの巨大な腕を回避していたらしい。しかし結末が分かりきっている今、無駄な奇跡であったと思う。
自分と同じ顔の少女の顔が化け物の口の中へと消え、それからはもう。明日香は視線を床へと移した。
『せっかく貴方の為に私のコレクションを再生しているというのに……』
不満そうなヒカリの合成音声に耳を疑う。コレクション、人が捕食される光景をわざわざ録画して保存しているとでもいうのだろうか。
バタン、と頭部と離れた体が前のめりに倒れた。化け物は口の中にあるものを十二分に咀嚼し、次に胴体へと顔らしき部分を近づけて口を開いた。それ以降の映像はとても見れたものではなかった。形容し難い、何か硬いものを噛み砕く音が車内に木霊する。重さに耐えきれなくなった柱が少しずつ崩壊していくような、太い木の枝が折れるような、そんな音だ。
ミシミシ、バキリ、ゴキッ…
明日香は脳の奥までも揺さぶるような雑音に耳を塞ごうとして、けれどついあげてしまった黒の瞳を見張った。
硬直する少女が見つめる先にあったのは、原型をとどめないほどに掻き乱されたかつての自分。それだけでもかなりの衝撃をもたらしたと言うのに、その現象はさらに強い驚愕を明日香に与えた。
明日香の残骸から無数の赤い糸が伸びる。それ自身が意思を持っているかのように蠢き、何かを探すように床を這い回って、欠片になった胴体を引き寄せ、元の形に近づけていく。
明日香のバラバラになった体はこうして、とても人間とは思えない過程を経て、原型へと戻ったのだ。そして何よりも気味が悪かったのは、再生された己の頭部が、首から下を失った状態で動いていた事。明日香が目を覚まし、言葉を紡げなかったあの時。明日香の体はまだ再生の途中であったのだった。
「う…」
肉片が自分を形作る様を見せられ、明日香はこみ上げる不快感をどうにか喉元で止めた。
『ご理解いただけましたか? 貴方は既に二度死んでいるのですよ』
ヒカリが無情に事実を突きつける。その声は変わらず無機質で、明日香は多少弱々しいながらも、スピーカーに憎悪の瞳を向けた。
「…殺してやるわ」
小さな唇から紡がれた言葉に、ヒカリは小さく嗤う。
「あんたが私をこんな目に合わせたように、あんたを殺してやる!」
震える足を叱咤して立ち上がらせ、明日香はふらふらとしながらも先頭車両を目指して踏み出した。そこに目的の人物がいるかは分からないが、それでも。
『その意気ですよ、明日香…私を殺しに来て下さい。出来るものなら、ね』
プツリと切れた合成音を合図に、またあの死神が降り立った音が聞こえた。背中側から近づいてくる音に、明日香はそれが何か視覚で確認することもせず、走り出す。ぶれる体を手すりにぶつけながらも、ただ憎き相手がいるであろうその場所に向かって。背後から迫る化け物から逃れ、復讐するために。
彼女の細い足は強く、電車の床を蹴り付けた。
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