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すぅ、と持ち上げた瞼が車内のつり革を見上げた。左右に揺れる白い輪っかに、もう何度目か分からない舌打ちを漏らす。するとそれを聞いていたのか、スピーカーからため息のような音が落ちてきた。
『いつになったら私の元まで来てくれるのでしょうね』
『恋人でも待っているかのような気分です』とヒカリは笑みを含んでそう放つ。明日香は何も返さず、けれど心の奥で「あんたみたいに人間の捕食シーンを好んで見るようなキチガイデブに恋人なんか出来やしない」と返していた。明日香の中では、操作している人物が気が狂っている太った男性と決定づけられているようだ。
ともかく、あの宣戦布告からいく度と無く明日香は殺されていた。最初と同じように食い殺されたり、時には長い爪で引き裂かれたり、そんな事を繰り返していれば自分の死にも慣れ始め、明日香は当初よりも落ち着いた態度で攻略法を巡らせるのであった。
その体は先ほど、例の化け物の腕によって潰されたわけだが、もう何回目か分からない再生現象を迎えると、思考は戸惑いを生むことなく静かに答えを探す事に専念できた。
『折角のコレクションが…』と嘆くのはやはりヒカリで、思考を遮ろうとするその声に明日香は「うるさいわよ」と合成音声を黙らせた。しかしそれで黙るようなヒカリではない。
『再生が終わったようですよ、明日香。逃げなくて良いのですか』
促す声に抑揚はないが、やはりこちらあざ笑っているような気がした。明日香は緩慢な動作で立ち上がると、また先頭車両へと足を運ぶ。その際に、「気安く呼ばないでよ、キチガイ」と、それまで溜め込んでいた言葉を吐きかけた。するとヒカリは一瞬の間をあけて、返事をした。
『…とても心外です』
既に数時間が経過したであろうこの世界で、はじめて明日香は、ヒカリの感情の色が滲んだ声を聞いた。変わらずの合成音の中に、拭いきれず混ざり込んだ弱々しさ。
耳を疑い、目を見張る明日香の様子に気づいたのか、または己の声の変化に気づいたのか、ヒカリは束の間黙り込み、『私を退屈させないで、明日香』と言い残して接続を絶ったようであった。ブツン、と音を立てたスピーカーはその後何の音も零さず、沈黙した。
(嘘…傷ついたの? 今ので?)
殺してやる、と。そう宣言した時は嘲笑で返してきた相手。自分で言うのもあれだが、若い女の子を捕まえて、よく分からない生き物に食わせて、それを録画しているような人物だ。とてもあの一言で傷つく精神の持ち主だとは思えなかった。
(……関係ない。見つけたら殺してやるんだから)
けれどその方法はまだ思いつかない。武器の一つも持たない、未成年の女性である明日香が、成人した男性相手に命を奪う行為が出来るのだろうか。出来ないことは無いだろうが、相手の不意をつくなど自分が優位に立たなければならないだろう。ヒカリが用意した明日香を踊らせる為の舞台で、糸繰り人形である自分がそれを出来るのだろうか。
明日香は悶々と思考を停滞させ、とりあえず次の車両にいくべく、扉をスライドさせた。あの死神は幸い、まだいないし、現れる気配も今のところはない。そう辺りを見回していた黒い瞳が、小さな汚れがついた窓で止まる。
(…?)
見えない力に手を引かれ、明日香は一つのドアの前に立った。澄んだガラスは指紋一つ無く、外の景色を汚れなく映している。ただその一点を除いて。
顔を近づけてよくよく目を凝らしてみれば、それは小さな花のシールであった。今時のデコレーション用の綺麗な花では無い。子供がよく絵で描くような、シンプルで稚拙な花の絵だ。
「なんでこんなもの…」
カリ、と爪を立ててみたが凹凸は感じられない。どうやらこのシールは車両の外側から貼られているようだ。ならば、と新たな疑問が沸き起こる。こんな奇妙な電車に、シールが貼られている。それも外側に。一体何故。どうやって。
かつて自分のように、ヒカリの退屈凌ぎとして捕らえられた人がいたのだろうか。そう思っても、明日香の脳はすぐにその回答を否定した。仮にいたとしても、その人物がこんなシールを持っているとは思えない。もしそれが明日香より幼い子供だったとしても、ここに来るまでの間に発狂するか何かしているはずだ。逆に大人であったのなら、こんなシールを持っていないだろう。
そもそも高速走行するこの電車の外側に出る術はない。走行中の電車から身を乗り出せたとしても、ドアには届かない。そしてシールを貼る意味もない。
(脱出のヒント…な訳ないか)
するり、とその場所を撫で明日香はそこから離れた。ただその時腕を引かれる様な、その場に明日香をとどめようとする力が感じられ、明日香は数分間その場で足を止めた。
何かが引っかかる。
『お待たせしました』
その不思議な力を霧散させたのはいつも通り無機質なヒカリの声で。明日香はガラスに映った黒い巨人を確認するや否やその場から逃げ出した。間一髪、なんとか避けることのできた化け物の一撃は、標的を失ってドアに叩きつけられる。
あのシールが貼ってあったドアだ。大きな拳に殴りつけられ、無残に歪み外れた片方の扉が景色とともに流れ去る。それと時同じくして、化け物の咆哮……いや、悲鳴が車内の全てを揺するほどに轟いた。
思わず耳をふさいだ明日香の前で、崩れ落ちるようにして蹲り震える化け物。その手に当たる部分がぐしゃぐしゃに潰れていた。反射的に上げた視線の先にあったのは、明日香がじっと見つめていた時のまま、一切汚れることなく、傷つくことなく、その場に鎮座する片方だけの扉。その曇りのない窓ガラスには、小さなシールの存在。
(どうして?)
自分が死ぬ時同様、この車内の全てが今まで破壊されてきた。ばらばらに砕けた扉だって、えぐり取られた床だって、明日香が目を覚ませば元通りになってきた。ならば今回だってそうなるべきである。それを回避する必要などないはずだ。
(何か理由があるんだ)
そしてそれを裏付けるように、ドアは丁寧に折り畳まれ天井へと収納された。間違いなくヒカリがそうしたのだろう。加えてその場から明日香を引き離すように、化け物から逃げることを促す。
『逃げないのですか、明日香』
「そんなにそれが大切なの?」
ヒカリの言葉を無視して問いかければ、ヒカリはまた沈黙した。間違いない。あのシールには何か意味があるのだ。それもあのヒカリが、化け物の攻撃から守ろうとするほどの意味が。
『明日香、まだ知らなくていい』
不自然なほど落ち着いた声が頭上から降り注ぐ。合成音声という事を除外しても、その声は酷く冷め過ぎていた。明日香が音に誘われて顔をあげたその目と鼻の先に、天井があった。
「え」
満足な言葉すら発せないまま、突然訪れた死に明日香はなす術もなかった。床と密着した天井の間に挟まれた明日香はもちろん、蹲っていた化け物もその原型をとどめることなく、その命を散らしたのであった。
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