ガラスの景色

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『……もう、お別れだ。明日香』 悲しみの色に塗りつぶされた声が静かに響く。哀情に揺れるその泣き声を聞くものは、その場にはいなかった。 そっと持ち上げた天井を元の位置に固定し、潰された肉の塊にカメラを向けたヒカリはしかし、その様を撮ることはなかった。代わりに、先ほどしまいこんだばかりの扉をカメラの目の前でゆっくりと広げていく。その窓ガラスに貼られた小さなシールを、カメラのレンズは穴が空くほど眺めキュルリとピントを絞った。 『明日香は守る…必ず。ヒカリは明日香の…』 力なく放たれた誓いの言葉の下、少女の体は再生を始めていた。 懐かしい夢を見た。いや、見ている。明日香は眼前で上映される過去の記録を、静かに見つめていた。まだ健康であった母と自分と、二人で買い物に出かけた時を切り取ったその映像に、明日香は顔を綻ばせる。 ガラスのような景色だと思った。見るものを魅了する美しくも儚い、些細な衝撃で一瞬にして消えてしまう光景。母がそれから間も無くして亡くなるとは、この時の自分は思いもしなかったのだろう。その幼い顔に浮かぶのは絶望でも落胆でもない。ただ明るい未来を信じた笑顔。 幼い頃の明日香が母の手を引いて店を駆け巡る。それについて行く母は楽しそうで、けれど苦しそうであった。幼い自分はそれに、気づかなかったのだろうか。と過去の自分を恥じても、過ぎてしまった事はもう覆せない。 (あれ…でもおかしいな) その違和感に気づくのは早かった。これが昔の自分の記憶であるなら、何故自分の全身と母の全てが見えているのだろう。その映像は幼い明日香の視線から撮られていなかった。 (じゃあ、私は誰?) 明日香の見ている記憶は、誰のものなのだろう、と。そんな明日香の眼前に、かつての明日香が近づいてくる。その姿は大きく、まるで自分が人形のサイズになったかのようであった。 「まま! わたしこのこがほしい!」 小さな…今は大きいが、その丸み帯びた手が明日香を指差した。この子、と言っていることから何か生き物を指しているのであろう。そう推測した明日香だったが、母が紡いだ言葉にそれが間違いだと気づかされる。 「あら、それは電車よ? いいの?」 「いいの! このこがいい! だってこのこは、いきたいばしょに、わたしをはこんでくれるんだもの!」 幼い明日香が明日香を掲げたところで視点が切り替わる。女児が持っていたのは、電車のオモチャであった。金属製のそれは、少しばかりつくりを凝っているようで、黄色い座席が並ぶ車内は白く、清潔感に溢れていた。 それは見覚えのある内装であった。 (これ…あの奇妙な電車の) 「きめた!」 明日香の思考は聞き慣れた女の子の声によって乱された。明日香はこの後に続く言葉を刹那に思い出し、目を見開いた。 どうして気づかなかったのだろう。私は、あの名前をよく知っていたはずなのに。 「あなたのおなまえはひかり!」 「ひかり…」 合成音声が名乗った、その三文字の名前を明日香は紡いだ。 買い上げたばかりの模型にぺたりと、自分のものと主張するように、その窓に貼られたシールはデフォルメされた花。途端に再生をやめ、固まった過去の映像は、もうその先を映さない。けれど、それに続く母の言葉を明日香は覚えていた。 「あなたが迷子になった時も、その名前のままにあなたの行く先を照らしてくれる…」 ぴしり、とひび割れた映像の向こうから見覚えのある電車が迫りくる。その重量を物ともせず、なおも加速するその列車を、明日香はよく知っていた。 緑と青の景色しか広がらない、田舎にある旅館へ行った時も、寝る時でさえ傍に置いていたそのオモチャの電車を。明日香は自分を轢き殺そうとする電車を前に、ただ力なく佇んでいた。眼前まで接近した鉄の塊に、思わず足を半歩ほど退いた。それは幾度となく殺された明日香が辛うじて覚えた、自衛の反応だった。 電車に取り付けられたライトが明日香の全身とその向こうを照らし出す。 『さようなら、明日香』 ゴォッ、と風を着る音と共に強く体を押された。電車に跳ね飛ばされたという感覚はない。明日香はそれに抗うこともなく、重心を後ろへと移してしまう。 パチリと瞬いた直後、見慣れた都会を背景に、空へと放り出されたオモチャ。模型の電車は強い風に煽られて、ビルの屋上から投げ出され、重力に従って落ちていく。 夢から覚めたように、明日香は見えなくなったその玩具を追って手すりに縋り付き下を見下ろした。 恐怖の声も上げず、悲しみの声も上げず、何も叫ばぬその存在は、物言わぬままに黒のコンクリートに打ち付けられた。強い衝撃に耐えきれず砕けた破片が、陽の光を反射してガラスのようにキラキラと輝く。舞い散る白亜のカケラに、明日香は目を奪われた。 『ヒカリは明日香の友達だから』 風に乗って、ヒカリの最期の言葉が明日香の耳を掠めた。同時に思い出された記憶が鮮明に再生される。 「だってひかりは、あすかのともだちなんだから!」 母の形見であり、幼い頃の私の友達であった存在。それが自分の過ちを正そうとしてくれた事を、明日香はこの時初めて知った。何度も自分を殺したのは、死の恐怖を蘇らせる為。逃げるように仕向けたのは、生に縋らせるため。 「ひかり…」 小さな私が守ろうとしていたその宝物は、その宝物にとっての友達を守るために、失われた。
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