ガラスの景色

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踏み出したその足の先に、母なる大地の存在はない。投げ出された華奢な体は、重力に従って下へと導かれる。舞い上がる長い黒髪。それを押さえる事もせず、急激に近づく地面に怯えるでもなく、ビルの屋上から飛び降りた少女は、静かに瞳を閉じた。 唯一の抵抗とでも言う様に、閉ざした漆黒の瞳は、眼前に迫る死を映さない。それが死に対する彼女の抗いだったのか、それとも終わりに対する歓迎だったのか、物言わぬ存在へと変わり果てる少女に、答える術は残されていなかった。 灰色の空の下、鮮やかな真紅が舞い踊る。黒のコンクリートに打ち付けられたそれは、不気味な赤の花を咲かせた。周囲の視線を奪うその花園に、人々の悲鳴が木霊した。 「どうして、貴方は生まれてきたの?」 絶望の色を隠さず、紡がれた言葉が悲劇の始まり。翌日、義母は首を吊った状態で見つかった。再婚相手の娘である私の為に買ったマフラーを首吊り縄の代わりにして。 「聞きました? あそこの家の子供、呪われているんですって。最近母親が死んだのも、そのせいらしいわよ」 「嫌だわ。呪いなんて信じていないけれど、どうせろくな子じゃないわよ。だってお葬式の時、一度も涙を流さなかったのよ」 根も葉もない噂はやがて、真実として語り継がれていった。母を二度も失った私は、母親殺しの濡れ衣を着せられ、学校ではいじめを受け、唯一の肉親である父親からは暴力を振るわれた。それだけなら、まだ良かった。 数日も経たないうちに、父が心臓発作を起こして急死し、私をいじめていたクラスメイトが、事故で他界するまでは。 「本当に、呪われた子なのね」 親戚の誰もが私を引き取る事を拒絶した。私を見る目は哀れみから恐怖へと変わり、目を合わせる人は一人もいなかった。 「うちの子を返してえええええ!」 私を駅のホームから突き落とそうとしたいじめっ子の母親は、タイミングを間違えて自らが電車の前に転落し、子の後を追う形となった。 私に関わったものは死んでいく。それがどんな相手でも。私の世話を押し付けられた義母だって、二人の妻を失ってから冷たく当たるようになった父親だって、憂さ晴らしの人形の代わりにしていたクラスメイトだって。 それは私の身を守ると同時に、外界との接触を遮断した。いい意味でも悪い意味でも、この呪いは私を外敵から守り続けた。最初はこれが呪いだなんて思わなかった。 私には母親が二人いる。私を数年育て、首吊り自殺をした女と、それまで愛情を注ぎ続けてくれた、私の生みの親。 「明日香、おいで」 病院から出ることが許されなかった病弱な母はいつも、そういって私を抱きしめた。まだ何も分からない幼い私に、毎日ご飯を作ってあげられなくてごめんねと、一緒にいてあげられなくてごめんねと、謝る代わりに強く、優しく。母は亡くなる前の日に、私にこう言った。 「お母さんは天国に行っても、貴方を守り続けるからね」 この言葉があったからこそ、私は呪いを信じずにいた。きっとこれはお母さんが私を守ろうとした結果だ、と。実際に亡くなった義母は私を邪魔者扱いし、罵詈雑言を浴びせていた。父だって私に手を上げ、殴る蹴るの暴行を加えていた。虐めていたクラスメイトだってそうだ。体についた火傷の痕は父から受けたものではない。 だから私は呪われてなんかいない。そう思っていた。けれどそう言い訳しても、説明がつかない事がある。 どうして私は誰にも愛されないの? 私を産んでくれた母以外、何故私を愛してくれないの? そうして分かったのだ。これは優しい母親の愛なんかじゃない。首を吊って死んだ義母の呪いなのだと。いつまでも懐かない私に理不尽な恨みを向け、相談しても相手にしない夫への憎しみを娘である私に向けた。逆恨みも甚だしい呪いなのだと。  このまま誰にも愛されず、必要とされないのならもういい。全てを投げ捨てて、明日香はこの世に別れを告げたのだった。
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