きれい

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新米コーチの私に任されているのは、トレーニング器具とトレーニングデータの管理と、マネージャーと大差ない。 特に期待されているのは、選手への声かけだろうか。ストレスや気になることの吐き出し口になってあげること。必要があれば、他のコーチと共有してチームとして選手を見守るよう図ること。 いちばん若い私が適任だと頭ではわかっていても、上手くこなせるかは別問題だ。 選手達とは10歳以上離れているし、何より彼らにとって私は元選手というより―― 「いった!」 足から離れたペダルは、容赦なくふくらはぎの内側を襲った。 上がる息に呼応するように、止めた太股に汗が落ちる。脚の痛みに、汗の不快感が勝った。しかしおそらく明日は筋肉痛で、ふくらはぎにはアザができているだろう。 モニターの数値は見なかった。現役時代と比べて落ち込んでしまうのは目に見えているし、こんなに漕いでも全く気持ちは晴れなかったからだ。 たったひとりのトレーニングルームは、今でも特別だった。どんなに気持ちが晴れなくても、思考はクリアになる。 忘れ物を確認して、鍵を掛ける。シャワーを浴びた後には今日のデータ整理が残っている。 「あれ、陽さん?」 突然名前を呼ばれて、鍵を落としてしまった。想像以上に鋭い金属音が、薄暗い廊下に響く。 「相川(あいかわ)くん?どうしたの?」 「いや、陽さんこそ」 どうやらトレーニングルームに用があったわけではないらしく、後についてくる。 自然と隣を取られているが、汗臭くないだろうか。 「たまには動かないと、落ち着かなくって。体型維持?」 ははっと漏れた笑いは、自分でもわかるほど乾いていた。 「俺、今日鍵当番だったんすけど、さっきコーチルームに行ったら鍵がなかったもんだから焦って」 「ごめんごめん」 返しておくから、許して。 「たぶん『きれい』が持ってるからって言われたんすけど」 つぶらな瞳に見つめられて、背筋が寒くなった。 「前から思ってたんすよね」 純粋に訊かれると、どう答えていいかわからなくなる。 「なんで陽さんて、『きれい』って呼ばれてるんすか」 「それは...」 彼も、薄々は勘づいているのではないか。私達が身を置くスピードスケート界は、広い世界ではない。 「現役時代の私、コーナリングが綺麗だったのよ」 「...へえ」 納得いってない、そんな口ぶりに聞こえた。でも、横を見て表情を伺うことはしない。 できない。
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