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どうしてこんなことになってしまったのか、まったくわからない。いつかの水曜か木曜の朝、俺と俺の横にいる男を残して、他の人類はいなくなった。
他の人類がみんないなくなった朝、俺と俺の横にいる男には、何の関係もなかった。俺たちはバス停でバスを待っていた。隣にいる男のことは知っていた。毎日同じ時間にバスを待っていたからだ。その日俺は会社に行くつもりだったし、隣の男だってそうだっただろう。
でもその日バスは来なかった。
次の日も、その次の日も。
俺は一度家に帰って、SNSやテレビが沈黙しているのを知って、またバス停に戻った。そしたら隣にいた男もバス停に戻ってきていた。
俺たち以外の他の人類が消えてしまったと悟るまで、何日か必要だった。
それでもしばらくは困らなかった。生活していくという意味でなら。ガソリンも、食べ物も、水も、たくさんあった。電気もまだ通っていて、スーパーの生鮮食品売り場にも野菜や肉があった。そのうち電気が来なくなって、新鮮な食べ物が腐りはじめた。でも加工食品や保存食はたくさんあったし、まだ電気がつく地区もあった。俺たちは一緒に行動するようになった。最初は数日おきに、やがてずっと。
別の場所へ行こう。そう最初に行ったのが俺か、俺の横にいる男だったのかは、覚えていない。
俺たちは移動をはじめた。
車と自転車を使った。移動する理由のひとつは食べ物を探すためだったけれど、いちばん大きな理由は、他に誰もいなくなった世界で何かすることが必要だったからだ。それにたぶん俺も、俺の横にいる男も、移動を続ければいつか誰かに会えると思っていた。俺たちは無人の家でみつけたバスケットボールを投げあい、本棚にあったマンガや本を分配し、みつけた食べ物の料理法をああでもないこうでもないと話しあい、タイヤのパンクを直すのに奮闘して、ふたたび移動した。
そのうちに時間も距離も、わからなくなった。
俺たち以外の人類がいたころ、俺は一日中忙しかった。朝起きて、電車に乗って、会社に行って、帰って、飯を食って、ゲームをして、たまった録画をみて、風呂に入って、寝る。そのあいだに時々他の人間と話をする。いつも時間が足りないと思っていた。もっと遊んだり、将来のためになることをしたり、家を片づけたり、しなくてはいけないこと、やりたいことがたくさんあるのに、忙しすぎて何もできないと思っていた。
隣にいる男にそう話したら、今は時間がたくさんあるのだからやりたいことをすればいい、という返事が返ってきた。
やりたいこと?
思いつかなかった。正直にそういったら、男は不満そうな顔をした。どうしてそんな顔をするのか俺にはわからなかった。
あんたはやりたいことがあるのか?
男はしばらく考えて、すこし先にあるまるい丘を指さして、あそこに家を建てたい、といった。
ここじゃだめなのかと俺は笑った。今の俺たちは無人の家を渡り歩いて暮らしているのだ。
だめだ、と男はいった。家を建てなくてはいけない。
じゃあそれが俺のやりたいことだ、と俺はいった。あの丘に家を建てよう。
家の建て方なんて俺は知らなかったが、男は知っていたのだ。次の日からあれこれ俺に指図をはじめた。俺と男はなかば壊れた家を解体し、土台用のセメントだの、ログハウスを建てるための色々な資材を集めた。
麓まで来てみると、丘の頂上は思ったより遠かった。俺たちは苦労してトラックに資材をつみ、上まで運んだ。その日は資材を下ろすだけで精一杯で、俺たちはトラックに乗って住んでいた家まで帰った。
男はすこし興奮しているようだった。図面を描いて、土台はこうやって、壁はこんなふうに、と、いろいろ見てきたように喋った。一日中働いて疲れていたので、俺はいつのまにか眠ってしまった。
ところが次の日丘に戻ったら、昨日上まで運んだ資材が丘の麓に並べられていた。
俺も俺の隣にいる男も、意味がわからなかった。誰がこんなことをしたんだ?
俺たち以外の人類はいないはずなのに。
俺たちはもう一度資材を運び、翌日の作業のために頂上に配置して、帰った。
ところが次の日も同じことが起きた。
どういうことだ。俺たち以外の人類がいるのなら、こんないたずらをやめて出てくればいい。
俺は興奮し、なかば腹を立てて叫んだが、男は淡々と、もう一度やろう、といった。
翌朝も同じだった。上に運んだ資材はすべてふもとに戻っていて、土台のためにつけた印は消されていた。
今日はここで、寝ずに見張る。俺はそう宣言した。俺たちをからかっている誰かをみつけてやる。
俺の隣にいる男はすこし嬉しそうな顔をした。
その夜は満月で雲もなく、夜でも外はけっこう明るかった。俺と男は積んだ資材からすこし離れたところで見張りをはじめた。月がゆっくり動いても、しばらく何も起きなかった。退屈になった俺は小声で男に話しかけた。ログハウスを一軒建てるのにどのくらい時間がいるかとか、そんな話だ。似たような話をこれまで何度もしていたと思う。
しっ、男が指を唇にあてて、俺は黙った。
月の光の下に丸い頭の影がみえた。それにひょろりとした長い――尻尾も。
猫だ。
たくさんの猫。
いったいどこにいたのだろう。猫がいたなんて、これまでぜんぜん気づかなかった。この世界から人類がいなくなったとき、人類が飼っていた猫も(たぶん犬も、ハムスターも、兎も、イグアナも)一緒にいなくなったのだと俺は思っていた。
猫は俺たちが積んだ資材のあいだを動き回り、尻尾を振りたてた。
にゃあ。
鳴き声と共に資材が宙に浮く。
え?
猫たちが尻尾をふるたびに、俺たちが積み上げた木材だのセメント袋だのが、空中をついついっと移動していくのだ。やがて丘の上には何もなくなった。
空き地に猫たちがならんでいる。大きな輪になって座っている。
あれはなんだ。どうしたらいいんだ。俺は隣の男の袖を引いた。
すると男が小さく叫んだ。
あ、猫が消えた!
ほんとうだった。輪になった猫の一匹が丘の中央へしずしずと歩いたと思うと、空間に飲みこまれたように消えたのだ。次の猫がそのあとに続き、また消えた。
男が立ち上がり、俺も立ち上がった。長いあいだふたりきりでいたので、俺も男も、ちょっとおかしくなっていたにちがいない。その時の俺には男の考えがわかった。あの猫を追わなければならない。なぜなら俺たち以外の人類はみんな猫になってしまったのだから。猫になってあの穴に消えたのだから。
俺たちが駆けだしても猫の列は崩れなかった。最後の猫のあとを俺と男は追いかけて、追いかけて、丘のてっぺんの真ん中を踏んだ。
そして昼の日差しの中に出た。
ここはいったいどこだ?
あ、猫。
人間の声が聞こえた。俺の声でも、男の声でもない。他の人類がここにはいるのだ! 俺は泣きそうになった。じっさい、声をあげて泣いた。
にゃあ。
あ、返事したよ。かわいいね。
え?
俺は頭をふり、自分の手をみつめた。猫。猫の足だ。俺は猫になってる?
どこの猫かな。飼い猫?
人類が一歩俺の方へ踏み出した。俺はパニックになり、身をひるがえして逃げた。
気がつくと月の光の下にいた。丘のふもとだ。俺たちの家の材料が積みあがっている。
今のはなんだ?
夢?
俺は両手両足、顔や髪に触って自分が人間なのをたしかめ、ハッと気づいて男を探した。どこに行ったんだ? まさかあいつも猫になったのか?
ぞっと不安にかられたとき、男がすぐそばにいるのに気づいた。
あんた、猫……じゃないよな?
おそるおそるそうたずねると、男も安心したように笑った。
ああ、猫じゃない。
俺は丘のてっぺんを指さした。あそこから昼の世界に出たんだ、と正直に話した。そっちには他の人類がいた。でも俺は猫に変わってしまってた。
男は俺よりもずっと落ちついていた。
同じだ。どうやらあっちに行くと俺たちは猫になるらしいな。
そんな馬鹿な。でも俺はいわずにいられなかった。
もしかしたらこっちの人間はみんな、あっちで猫になっているんだろうか?
男は困ったような表情で、そうかもしれない、といった。
もしかしたらあっちの人間は、こっちに来ると猫になるのか? あの資材を動かしたのは、入口を塞がれて邪魔だったから?
さあな。
あっちへ行けば俺たちは、猫になって人間に飼われたり……することになるのか?
野良猫として捕まるのかもしれないな。
男は首をふった。帰ろう。もう十分だ。
でもあんたのログハウスはどうするんだ。どこに建てる。
明日考えるさ。
俺たちはトラックに乗りこみ、男はエンジンをかけてハンドルに手を置き、ぼそりといった。
究極の選択だ。猫になって他の人間に会うか、人間のままおまえとふたりでいるか。
トラックが走り出す。俺も男もしばらく黙って、なぜか同時におなじことをたずねた。
どっちがいい?
そして同時に答えた。
わからない。
月はまだあたりを煌々と照らしている。
(おわり)
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